
夕餉が終わってひと息ついたところでいきなり、武市さんにお茶を持って部屋に来るようにと言われた。
私、何かやらかしちゃったんだろうか?
そのときの武市さんの顔がすごく怖くて……身に覚えはなかったけれど、きっと怒られるのだろうと覚悟して武市さんの部屋の襖を叩いた。
「……入りなさい」
その声音も、なんとなく機嫌が悪そうで……開けるのを躊躇ってしまう。
「どうした。早く入りなさい」
「は、はい……」
少しだけ襖を開けて覗いてみた。何故だか、部屋が暗い。行灯に明かりはなく、照らすのは文机の隅に置かれた小さな蝋燭一本。
――きれい……。
ちらちらと揺れる炎の明かりが武市さんの綺麗な横顔を浮き上がらせて、それはとても幻想的な眺めだった。部屋の入り口で座ったまま武市さんに見惚れてしまう。
「……こちらへ」
ぼんやりとしていた私に、呆れたように武市さんがそう言う。慌てて、私はお盆を持って武市さんの傍まで寄り、文机にお茶を置いた。
武市さんが、ゆっくりとお茶を飲む。私は、いつお説教をされるのかとちょっと身構えていた。けれど、それはいつまで経っても始まらない。ひょっとして……単にお茶を飲みたかっただけ、だったのかな。
「なんですか、落ち着きのない。ちょっとは妙齢のおなごらしくできないものですか」
うっ。やっぱり怒られた。
溜め息をつく武市さんに、ひたすら小さくなるしかない。
「……まあ、それでもお茶は美味しく淹れられるようになりましたね。いいことです。このお茶だけでも、嫁に貰う価値はある」
目を閉じたまま湯飲みを口にする武市さんが、そう呟く。瞬間、心臓がぎゅっと掴まれたように息苦しくなった。ただのテンプレートな言葉に、なんでこんなにも鼓動が早くなるんだろう。耳に残るその言葉を消したくて、私はとにかく頭を振った。
「褒めればすぐにそれだ……まったく」
固い声色で言われて、思わず身を固くした。武市さんが、手で床の間の方を指し示す。
「あの……なんでしょう?」
「そこへ」
短く言われて、理由も分からず私は指示された場所に座った。一体、何を?
「横を向いて。顎を上げて。遠くを見なさい」
え? な、何をするの?
武市さんは元の文机の前に座ったまま、頬杖をついて私を見ているようだった。
静まり返った、仄暗い部屋の中、自分の心臓の音だけが耳に木霊する。武市さんの考えていることが分からなくて、横目でちらりと武市さんを見ると――見たこともないような真剣な眼差しで私を見詰めていて。慌てて、私は視線を元に戻した。これ以上武市さんを見てしまうと、きっと私の心臓は破裂してしまうに違いない。
ゆらり、と、光の影が伸びる。目の前を、大きな影が横切《よぎ》る。
どれだけそうしていただろう。
「……よし」
そう言って、武市さんは蝋燭の火を行灯に移した。明るい光が、部屋を満たす。
「ご苦労だったね。もう遅い、寝なさい」
そう素っ気無く言われて、思わず拍子抜けした。声をかけようとしたときには、すでに武市さんは文机に向かっている。仕方なく、私は立ち上がった。
「……これから三日間、僕は忙しい。そこの続きの襖は決して開けないように」
私の方に振り返りもせずにそう言う武市さんの後ろ姿が冷たくて……私はただ「はい」とだけ答えて、武市さんの部屋をあとにした。
あれから、武市さんの姿をほとんど見ていない。
ご飯を食べるときだけはみんな揃っているけれど、昼間はみんな、会合だのなんだのって忙しい。いつもなら夜にちょっとお喋りをしたりするのに、武市さんは夕餉を食べると早々に部屋に籠ってしまう。
龍馬さんにお酒を注ぎながら、思わず溜め息が零れた。
「ワシらの話は詰まらんかの?」
にしし、と笑いながら龍馬さんが言う。そ、そんなことないですよ! そう答えながら慌ててお酒を注ぎ足したものだから杯からお酒が溢れそうになって、龍馬さんは焦ってそれを口にもっていった。そんな私を見て、慎ちゃんがくすくすと笑った。
「武市さんもいろいろ忙しいんスよ。姉さんが気に病む必要はないっス」
「べっ! 別に私はっ!」
「隠したって無駄っス。姉さん、顔に出てますもん」
思わず手で頬を覆った。
「……遅い」
以蔵が、ぼそっとそう言う。
「だから! そんなんじゃないんです! ちょっと気になるだけで……」
「耳まで赤くして何を言っている」
「……以蔵の意地悪っ!」
余りにも恥ずかしくてもうこれ以上ここには居られない。振り返りざまに以蔵にいーっと歯をむいて、思い切り襖を閉じた。
† † †
「……行ったか」
龍馬が、ふっと溜め息をつく。
「今日ですよね。武市さん、間に合いますかね?」
「先生を愚弄するな。間に合うに決まっている」
二階の窓の障子をそっと開ける。漆黒の闇の中、空間を切り取るかのような見事な満月が山の端から顔を覗かせた。
その月を見遣りながら、龍馬はまたひとつ、溜め息をついた。
「まったく、惜しいはちきんぶりじゃ……」
† † †
自分の部屋に戻って、枕を拳で殴りつける。
「もう……もうっ!」
分かってる。このいらいらは、誰のせいでもない。私の勇気のなさのせいだ。
ここ数日、私の顔を見て眉を顰める武市さん。そんな顔を見る度に。
どうして私のことを避けるんですか、って。武市さんに聞きたいのに。声をかけないでくれと、そう全身で表している武市さんに、私は開きかけた口を閉じてしまう。
「淋しいな……」
そう呟いてみて、初めて自分の気持ちに気づく。認めてしまうと、もっと淋しさが募る。
「武市さんの……バカ」
悔し紛れに口にしたとき、続きの襖が開いた。
「僕が、何だって?」
その声に、ぱっと振り返った。私を見た武市さんの目が一瞬見開かれたけれど、すぐにふいっと顔を背けてしまった。
「……来なさい」
招かれて、武市さんの部屋に入る。いつも武市さんが座っている隣に、座布団が敷かれてあった。そこに座れ、ということらしい。
私がそこに座ると、武市さんは満足そうに頷いて行灯に手をかけた。一瞬で、部屋が真っ暗になる。どきりと心臓が高鳴った。
「武市さん……?」
武市さんは口に手を遣って沈黙の仕種をし、視線を床の間へ送った。私もつられて、そちらへ――
「え……」
そこにあったのは、何かを見上げる女の人の絵。丸窓から差し込む月の明かりがその横顔を照らして、文机に置かれた花のシルエットが横顔を飾っている。
「これ……」
「君への、贈り物だ。今日は、君の生まれた日なんだろう?」
ふわりと笑う武市さん。優しいその表情に、思わずじわりと涙が溢れそうになる。
これを描くために。だから、あんなに素っ気なかったの?
そんな私を見て、武市さんがちょっと複雑そうな顔をした。
「ごめん」
ふわりと、何かに包まれる。それは、武市さんの広い胸。微かに漂う、何かの甘い香り。
「黙っていて、君を驚かせようと思っていただけだったんだが……僕を見た君のあんな顔を見たら、自分がどれほど馬鹿だったか分かった。……淋しかった、んだろう?」
ふるふると、私は武市さんの腕の中で身を捩る。ううん、バカなのは私の方。こんなに、こんなに嬉しいことなんて今までなかった。
少し顔を上げて、武市さんの描いた絵を見る。何かを求めるかのようなその横顔。私の、求めるもの。
「……おめでとう」
微かに、武市さんがそう囁く。
素敵な絵と、武市さんの一番の笑顔。どこにもない最高のプレゼントを、私は手に入れた。
