水底の月(バナー)

 揚屋に上がったとき、さも当たり前のように彼女を――みづきはんを名指《なざ》した。

「枡屋はん。申し訳ありまへん。みづきはんは別のお座敷に上がっておりまして」

「……そうでっか」

「他の遊女を呼びまひょか?」

 しばし考える。他の誰かを呼んだとして、果たしてあれほどに旨い酒が呑めるものだろうか?

「いや、今日はやめときまひょ。とりあえず酒だけ運んでもらってもええやろか」

「もちろんどす」

 案内されて廊下を渡る。さんざめくように笑い合う、男と女の声。忍び笑いは闇に溶ける。あの向こうでは、虚構の世界が拡がっている。愛しい、旦那さんが来ん日は夜も明けへん、わてこそあんたのことしか考えられんかった……まるで、それは芝居のように。ここは、夢の世界。

 それでも、あの娘さんは。

 そう思ったとき、楽しそうな笑い声がした。「やった、逆転ですね!」――ああ。この声は。

 相変わらず、子供っぽいお人や。

 忍び笑いが止まらない。

 呼ばれた座敷で、投扇興でもしているのだろう。それに夢中になるのも、向きになるのも、実にあの娘さんらしい。

「こちらでよろしおすか?」

 それは彼女のいる座敷から二間しか離れていなかった。少し考える。

「静かに呑みたいんやけどな」

「ではこちらへ」

 三階の隅の部屋が空いていた。幸いや。彼女の声も届かん部屋や。


 障子を開けると、少しひんやりとした風が入ってきて心地好い。東の空には空を切り取ったかのようにくっきりと丸い月。ひとり静かに呑むにはうってつけの夜だ。

 酒肴と一緒に、揚屋の主人に頼んで紙と筆を持ってきてもらっていた。畳の上に紙を拡げ、左手で酒をちびちびとやりながら思うままに筆を走らせる。

  思い出すのは、先日の座敷でのみづきはんのこと。吉野太夫が座敷で着ていたという着物を着せてもらったのがよほど嬉しかったらしく、顔が上気していた。今 は空座になっている先代を目の当たりにしたことがあったが、確かにみづきはんに良く似ていた。みづきはんがあと数年して「吉野」を名乗るようになる頃に は、瓜二つと言われることだろう。

 下地の鉄紺色に、紅葉した灯台躑躅《どうだんつつじ》の赤と、今日のような真っ白な満月が鮮やかに浮かび上がる。それは、みづきはんの白い肌によう映えとった。

 暗闇にもはっきりと分かる白い肌が、触れた先から赤く染まってゆく。そんな想像を掻き立てるあの着物は、あまりにも扇情的だ。手の届かない天女を、一瞬でも我がものにしたかのような気にさせる。染問屋の粋な計らいや。

  きっと、わてが見惚れとったのには気づいてはらんと思う。まるでその躑躅のように顔を染めて、みづきはんはわての顔が元に戻るまで俯いとったから。も し……もし。あのときみづきはんがもう少し早う顔を上げとったら。わては辛抱しきれんできっと手を伸ばしていた。絶対に伸ばしてはいかんもんに。ああ。助 かった。

 夜半《よわ》の満月が空を高く渡る。夜九ツの鐘の音。見世の中も物音が少なくなり、静かに夜が更けてゆく。もうひとつの夢の始まりだ。そのとき、襖を叩く音。はっとそちらを振り返る。

「湯武」

 心臓が、止まるかと思うた。

「……放伐」

 開けられた襖から覗いた馴染んだ顔が、なんだ、と言っていた。

「あからさまに嫌な顔をするなよ」

「嫌な顔なんかしとりまへん」

 そないに顔に出とったんやろか。つん、と顔を逸らしたわてに、高杉はんはくっくっと喉を鳴らした。

「待ち人は来たらず、か」

「そやから。誰も待っとりまへん」

 高杉はんは、わざわざわての目の前に回り込んでそこに座った。わての描いた絵を見て、唸りながら顎に手をやる。あとは目だけだった。手酌で酒を注ぎ、ぐいっと一気に呷った。そして筆に墨を浸し、ゆっくりと、細い線でそれを仕上げる。

「ほう……これは」

 伏せた視線をこちらに寄越す妙齢の女。今を盛りと身を捩り、花を散らす吉野桜が彼女を彩る。

「紙の向こうからでも色香が漂ってくるな。この着物は吉野太夫か……いや」

 何かを言いかけた高杉はんを、筆をかつんと置いて制した。にやにやと物言いたげにこちらを見る高杉はんをなるべく見ないように、窓の外へと視線を向けた。

「ふーむ、絵具があれば更に見栄えがするだろうにな。古高どのは意外に絵の才がある」

 描き上がった絵を手にしてあちらこちらから眺め、高杉はんが感心しながらそう言う。

「まさか。そんなもんはただの放蕩店主の手遊《てすさ》びやあらしまへんか」

「似合わん謙遜なんぞいらん」

  道具を片づけようと筆や絵皿を手にしたとき、遠くからばたばたと足音が響いた。一瞬、高杉はんの顔に緊張が走る。だが、それはあっという間に和んだ。この 足音。言われなくても分かる。天女の御神渡りだ。天女の軽やかさなど欠片もない、そやけどわてにとってはどんな音曲よりも至福な。

「枡屋さんっ! いらしてたんですかっ!」

 いきなり襖を開けるみづきはんに、高杉はんが呆れたように睨みつける。

「……俺も居るんだがな」

「あ……た、高杉さん、こんばんは」

 付け足しのように言うな、口を尖らせて高杉はんはそう言うけれど、その声に愛おしさが紛れているのはわてには分かる。それはきっと、同じ気持ちを持つ「同志」だから。

「すみません、別口のお客様がお休みになられて藍屋に戻ろうとしたら、揚屋の旦那さんに枡屋さんがいらっしゃってるってお伺いして……急いで来たんです」

 そう言いながらわてらの前に座るみづきはんに、思わずこころが歪んだ。

 それを、知らんとでも? あんさんが、わてやない誰かに酌をし、その男と笑い合いながら遊んでたんをわてが知らんとでも?

 それが、あんさんの仕事やいうんは分かっとる。それでも。わての知らんところで、あんさんはわてにするように、誰か他の男に笑いかけとるんや。わてが堕ちた、その笑顔で。

 ほんまに、憎い。あんさんが、憎い。そんなあんさんを独り占めでけん、自分が何より憎い。こころが、爛れていくようや。

「それはご苦労さんでしたなあ。お疲れやろうし、藍屋へ戻られて休みはった方がええんやあらしまへんか」

 顔は、ちゃんと笑えとったと思う。そやけど、声に棘を乗せるのを止められん。そんなわての言葉に傷ついた顔をしはるみづきはんが……愛おしくて。かいらしくて。ここに高杉はんが居てくれはったことに、心底感謝する。そやなかったら、今頃わては。

 うなだれたみづきはんに、ここぞとばかりに高杉はんは耳許に顔を寄せた。

「いいことを教えてやろう。俺がここに来たとき、どうやら古高どのは俺ではない誰かを心待ちにしていたらしくてな。それはそれは嫌そうな顔をした」

「……男のお喋りはみっともあらしまへんな」

 見る見る間に真っ赤になるみづきはんは、慌てて持ってきた三味線を取り出してバチを構えた。調律しながら、「新しい唄を覚えたので、聞いていただいてもいいですか?」と早口に言う。

  島原の中は、もうひとつの夢の中だ。邪魔をしないように、みづきはんはいつもより小さく、囁くようにそれを唄った。なかなか訪れない愛しい人への切ない気 持ちを籠めたその唄は、その唄い方が良く似合っていた。唄い終えたみづきはんに「また一段と腕を上げたな」高杉はんがそう言うと、みづきはんの頬はまた 真っ赤に染まる。いつまで経っても初々しゅうて、実にかいらしい。

「初めて聞く唄どすな」

「……はい。初めては全部、俊太郎さまに聞いていただきたくて」

 一瞬、刻が止まってしまったかと思った。「……それは光栄なことで」慌ててにっこりと顔を作り、そう言った。躊躇いながらもわてと視線を合わせてくれるみづきはんが愛おしい。

「お前ら。俺が居ることをすっかり忘れてるんじゃないか?」

「おや。邪魔やと分かってはるんやったら、早うお暇してくれはってもええと思うんどすけどなあ」

 そんな掛け合いに、みづきはんがやっとのことで笑ってくれた。わての、大好きなあの笑顔で。

 何かを恨み、荒み、そして徐々に色をなくしてゆくこの世界の中に、ただひとつ、色を灯すわての愛しい天女。

 夢の世界の、ただひとつの現実。そやけど、決してこの手にはできんもの。してはいかんもの。

「さて。そろそろ藍屋さんに戻られた方がよろしおす。こんな刻限にいつまでも座敷におったんでは、何の言い訳もできまへんで」

「でも……」

 あああ。そないな顔、わてに見せたらあかん。困った、なんと腰の重い天女や。

「それとも、あんさんの羽衣であんさんの手足の自由を奪って褥に転がしてもええとおっしゃるんでしたら、遠慮のうそうさせてもらいますけど」

「かっ、帰ります!」

 慌てて三味線を引っ掴み、みづきはんは襖を開けた。そして……わてに振り返った。「また、来てくれますよね?」言葉ではそう言うのに、その瞳は――何かを知った女の炎を宿して。

 みづきはんが去ってしばらく、わてらは何も言えなかった。そして、高杉はんが大袈裟な溜め息をつく。

「……あれは、何年後のあいつを描いた?」

「今日の、でないことは確かどすけど」

 ああ。おなごとは怖いもんや。まだまだやと思うとっても、それはあっという間に花を咲かせる。もう、ひとときほども目を……離せん。

 自分の無粋な思いを振り切るために、また手酌で酒を注いだ。杯を覗きこむと、そこには空を渡る満月が捕らえられていた。

 月が、わてに微笑む。

『名は、何ておっしゃいます?』

 あのとき、飛び込むようにしてやってきたわての座敷で戸惑う彼女に、そう聞いた。

『みづき、です……月が満ちる、と書きます』

 その名の通り、いつ見てもみづきはんはわてに違う顔を見せる。子供のように笑ろうたかと思うたら、拗ねたり膨れたり……甘えるように、わてを見上げたり。闇夜ばかりにしてもええ、これを閉じ籠めて隠しておきたいと、何度願ったことか。

「……呑まないのか」

 そんなことを考えながら杯を覗きこむわてに、高杉さんがそう問いかけた。

「……これは、わての身に余りますさかい」

 この身に包みたい、そう思う。そやけど、いつの間にかわてがあんさんに包まれとる。

 あんさんは、明日には欠けてゆく。わての想いは、いつも膨らむばかりや。

 ちらりと、描いた絵に目を移す。

 このままやと、いつかわては。もうひとつの夢の世界へあんさんを連れてゆき、この手で、あんさんの肌をこの躑躅のように染め、汚してしまう。そんな夢のような日を待つ自分が怖い。そんな穏やかな日を求めてしまう自分が怖い。

 あんさんが、総て変えてゆく。わての総てを、あの笑顔で。あの、眼差しで。

 わての隣に座り、同じように手酌で酒を注ぎ、高杉はんが空を見上げる。傾いてゆく満月に、雲ひとつない夜空には負けじと星が瞬く。

「灯台躑躅《どうだんつつじ》は、【満天星】とも書くな」

 満天星に満月。

 ぽつりと、あんさんの名が口から溢れるわてを許して欲しい。

 呑み干せない月を抱いて、今宵は。夜空にあんさんを想いながら、夜明けを待つとしまひょ。

水底の月(バナー)

秋海棠 界 

KAI SHUKAIDO

Pixiv:2664519

Twitter:kai_shukaido

検索

モバイルサイト

ページの先頭へ