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「通り過ぎてゆく日」を感じるのは、どんなときなんだろう?


  † † †


 あれからもう何日過ぎたのか、今の俺には判らない。

 ただ、窓の外で雨が降っている音だけが俺の耳を捉えていた。時折、遠くで雷が鳴っているのも聞こえてくる。

 今日は何日だった?

――そう考えて、また考えるのを止めた。今日が何日だろうが、きっと「月日」は勝手に流れていくんだ。俺が生きていようと、死んでいようと。彼女が――生きていようと、死んでいようと。

 そう。もう、どうでもいいじゃないか。



 あの日、彼女が俺の部屋に遊びに来てくれていた。ちょっとした言い合いになって、夕方には彼女は帰ろうとしていた。

「明日、バイトに来んのかよ?」

「研究室に入るためのレポートがあるから、しばらくバイトは休みにしてるの。じゃあね」

 膨れっ面のまま、彼女は出て行ってしまった。いつもなら彼女の家の近くまで俺の車で送って行っていたんだが、俺も彼女もそういう気分じゃなかった。そのまま、俺は彼女を送り出してしまった。

 彼女が死んだと聞かされたのは、それから三日後のことだった。葬儀の日だった。

 彼女はあれから駅へ行き、電車に乗って、いつもの駅で降りた。その駅から家への帰り道、一時停止を無視した車に撥ねられた。即死だったという。

 俺と彼女はバイト先で知り合った。大学が同じだった訳でもなく、しばらくバイトを休みにしていた彼女がバイトに来なくても、誰も不審には思わない。事故で気が動転していた彼女の家族は、バイト先のことまで気が回らなかったのだ。

 そんな些細な偶然のせいで、俺が事の顛末を知るまでに三日かかってしまった。バイト先の店長が葬儀に行くというので、何人かついていくことになった。もちろん、俺もそれに加わった。

 彼女とつき合っていることを誰にも話してなくてよかったと、そのときは真剣に思った。知られていれば、誰もが俺に憐憫の情を向けただろう。「可哀想に」「気を落とすなよ」……そんな言葉が、一体何の役に立つっていうんだ?

 バイト先から一旦部屋に戻り、葬儀に不釣り合いでない程度のスーツを着て、慣れないネクタイを締めるために鏡を覗き込もうとした。

 真っ青だ。

 こんな顔をしていては、誰かに気づかれてしまう。蛇口を捻り、まだ冷たい水で顔を洗うと少しさっぱりしたような気がした。その瞬間、鏡の前に置いてあった彼女のピアスが目に入った。

 返さなきゃ……何も考えず、俺はそれをジャケットに突っ込んだ。

 葬儀には、彼女の友達が大勢来ていた。誰もが涙を流し、誰かに支えられながら彼女を見送る。

 俺は――? 俺は、泣かないのか?

 泣く訳にはいかない。彼女とのことは誰も知らないのだから。彼女の家族さえ、俺とつき合いがあったことは知らないはずなのだ。こんな場で、彼女の家族をさらに悲しませる訳にはいかない。

 彼女の顔を、最後に見せてもらった。この顔のどこが、死んでいるっていうんだ? ほら、まだ膨れている。笑ったり泣いたり、忙しいコだった。あのときのままじゃないか。俺のことを怒ったまま、棺の中に横たわっている。

 ピアスを返そうと、手を伸ばした。その指先が彼女の耳に触れたとき、俺は悟った。彼女は――死んだのだ。温かかった彼女の身体は、間違いなくひんやりとしていた。唇が、震えそうになる。

 思い直して、俺はピアスをジャケットに戻した。彼女の身体を焼き尽くす炎は、このピアスさえも灰にしてしまうのだろうか? 俺に、何も残さずに……? 何ひとつ残さず、彼女はその存在を俺の前から消してしまうのか?

 あの最後の日のその前。顔を洗おうと彼女はピアスを外した。まだ慣れないピアスにうっかり触ってしまうのを気にして。「怖がりだな」そう言うと、彼女は「そうよ、知ってるでしょ?」と笑った。初めて抱き合った日、震えも涙も止まらなかった彼女を思い出す。怖かっただろう。目の前に迫る車を見たとき、彼女は一体何を考えたんだろう?

 葬儀が終わり、彼女が眠る棺が車に乗せられ、そのままどこかへ連れ去られてゆくのを俺は黙って見送るしかなかった。

 バイト仲間と、ひと言も交わさずに部屋に戻った。彼女のピアスを、元の場所に戻す。これが、証しのようで……俺は、ずっとそれを眺めていた。

 大学が休みに入ったこともあって、思い切ってバイトも辞めた。ただぼんやりと、俺は部屋の天井を見つめる。

 情けないことに、どんなに悲しくても腹は減るし、生理現象は起きる。実家からは「春休みなんだからたまには帰ってきたら」なんて電話がかかってくる。一応心配させまいと、俺は明るく「バイトで忙しいから」と返事する――そう、俺は生きているのだ。そして、彼女は死んだ。

 思うのは、あのときにどうして送って行ってやらなかったんだろう、ってことだった。どうしてケンカなんかしたんだろう? どうして仲直りしなかったんだろう? どうして、どうして……彼女に膨れっ面をさせたまま、俺は彼女を死なせてしまったんだろう?

 そこかしこに、彼女の思い出が漂っている。いたたまれなくて、俺はふらりと部屋を後にした。



 雨。

 雨が降っている。

 俺は生きている。この世界も生きている。

 なのに。

 彼女は死んでしまった。

 じろじろと、通りかかる人が俺を横目で見てゆく。

 何を見てるんだ? ふと、周りを見て気がついた。

 そうだ。雨が降っている。

 こんな雨の中を傘も差さずにぼんやりと歩いていれば、だれだって奇妙に思うだろう。

 母親らしく人と歩いていた女のコが、俺に駆け寄ってきた。「やめなさい」そう言う母親の声も気にせずに。

「お兄ちゃん。傘もなくて冷たくないの?」

 俺は、少し笑ってみせた。

「……冷たくなんかないよ」

 女のコは、母親に手を引っ張られて行ってしまった。微かに笑いが込み上げる。

 冷たくなんかない。

 彼女の耳の方が、もっともっと冷たかった。この雨に打たれて、俺の身体ももっともっと冷たくなればいい。そうすれば、俺も死ねるのかも知れない。

 もう、俺の周りに人はいなかった。通りに笑い声が響いている。それは、俺の笑い声。



 気がつくと、俺はバイト先で一緒だったある男の部屋の前に来ていた。

「……何してんだ、お前」

 足の先まで雨に濡れている俺の姿を見て、ヤツが言った。

「傘がなかったんだよ」

 答えると、まあ、上がれよ、そう言ってバスタオルを投げて寄越した。

 どうしてここに来てしまったんだろう? 彼女の話をするつもりじゃなかった。なぜかここへと足が向いてしまったのだ。

 ヤツとは大学も一緒で、何回かこの部屋で酒を飲んだこともある。それでも、特に「親しい」仲だとは思ってはいなかった。それでも、どうして俺はここに来てしまったんだろう?

 部屋の真ん中に拡げられたテーブルに、差し向かいで座った。ヤツの前には空いたマグカップがあった。

「ああ、すまん。何か飲むか?」

 ビールはないんだ、そう言いながら、ヤツがキッチンへと消えた。しばらくして、電子レンジらしき「ピピッ」という乾いた音がした。運ばれてきたのは、大きなカップに入ったホットミルクだった。湯気が、温かそうに俺を誘っている。

「すまんな。コーヒー、切らしちゃってて」

 そのカップを掌で包むと、自分の身体が思っていたよりも冷たくなっていたことに気づいた。指先が、震える。唇も震えていた。

 それをひと口飲むと、熱くて喉が焼け爛れるような気がした。それが胃の中に落ちてゆく感覚がする。そこで初めて、俺は二日ほど何も食べていなかったことを思い出した。

「……何、我慢してんだ」

 ヤツにそう言われた瞬間、何かが弾けた。俺は、箍が外れたように何かをまくし立てていた。こんなこと言って、何になる? ヤツは何も知らないのに。話したからって、一体何になるっていうんだ?

 それでも、俺はこの感情を止めることができなかった。吐いて吐いて吐いて……そして、何もなくなってしまった。

 全部吐き終わって、俺は初めて息をしたような気がした。静かだ。俺の中で暴れていた嵐が、髪の毛一本さえも動かないくらいに静かになった。そして、俺の声が木霊していたヤツの部屋も静かになった。

 ……何か、音がする。何の音? ああ、雨音だ。

「……まだ、雨、降ってるのか」

 俺の目の前の、ヤツが少し笑った。

「……何言ってんだ。雨はもうとっくに止んでるよ」

 でも、雨音がするんだ。なぜ?

 視線を膝に落とすと、ぱたぱたと液体が落ちてきた。

 それは――俺の、涙、だった。

 とめどなく流れて、俺の膝でそれは弾けて散った。俺は――泣いている?

 ヤツが、小さく呟いた。

「お前、あのコのこと、ホントに大切にしてたんだな」



 俺は、泣ける場所を探していたのかも知れない。

 もう、夜もそこまで来ていた。「もうちょっとゆっくりしていけよ」ヤツはそう言ってくれたが、俺にはしなければいけないことがあった。

 サンダルを突っかけて、ヤツはマンションの外まで送ってくれた。「すまない」そう言った俺の背中を何回か軽く叩きながら、ヤツは暗くなってゆく空を見上げて笑った。

 見送ってくれるヤツに軽く手を挙げて、俺は桜が舞い散る道を歩き始めた。

 気がつかなかった。もう、桜が咲いていて、そして散り初めている。俺の時間が、動き出す。

 ふと見上げると、東の空に大きな満月が浮いていた。

 そういえば、膨れっ面の彼女を見送ったあの日、あの日も満月だった。もう、あれから一ヶ月近く経っていたんだ。

 もう、悲しむのはやめよう。そして、彼女が過ごせなかった時間を過ごし、彼女が見られなくなったものも見て、そして感じてゆくことにしよう。

「今日も、満月が綺麗だよ」

 そう、口にしてみた。彼女が「ホント。綺麗ね」そう答える。そうして、彼女は俺の中で生き続けるのだ。

 桜の舞う道を、彼女の家に向かう。幸せだった彼女との時間を、彼女の家族にするために。彼女の家族の知らない彼女の時間を、埋めるために。

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秋海棠 界 

KAI SHUKAIDO

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Twitter:kai_shukaido

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