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  かた、っと障子が風に揺れた。どこからか入ってくる隙間風に行灯の火がかすかに揺れて、手許に影を落とす。

 朝、きっちりと整えたはずの鬢から髪が一筋落ちた。それを撫でつけながら、遠い記憶に思いを馳せる。

 少し癖のある髪は、毎朝ひっつめるのが意外に大変だった。でもそれが変わったのは二十三のとき、兼《かね》と結婚してからだ。

 兼は、北川村野友の庄屋・利岡家の娘だった。色白の丸顔で幼く見え、とても十八になったとは思えなかった。指も、丸くて可愛らしかった。でもその手は意外に器用で、炊事・針仕事と器用にこなす。毎朝、早くから慎太郎を鏡の前に座らせて、櫛に鬢つけ油を少しずつ取りながらもつれた慎太郎の髪を丁寧にほぐし、撫でつけてひっつめてくれた。それが終わるといつも、鏡越しににっこりと笑うのだ。あどけなく、幼くて可愛い妻。眩しいその微笑みは、ほんの一瞬のやすらぎだった。



 やっとのことで説き伏せた薩摩の西郷吉之助を桂小五郎の待つ長州・下関まで送り届ける途中、大久保一蔵からの書簡が届き、西郷が下関に寄らずに京へ向かってしまったのはふた月前のこと。憤る桂を何とか宥めて龍馬と共に西郷を追いかけ、京の薩摩島津屋敷で長州のために武器を周旋することを約束させた。

 雑事も片づき、明日には伏見に下って田中顕助・池《いけ》内蔵太《くらた》と長州に向かうことになっていた。これで万事がうまくいくだろう、と祝いの酒を傾ける中に、肝心の龍馬の姿はなかった。酒が好きな龍馬が別盃のための宴席を断るとは珍しかったが、急ぎの用があるなら仕方のないことだ。

 翌朝。朝早くに出立の準備をして宿の表に出ると、龍馬がそこに立っていた。

「昨夜はすまんかったのう。伏見まで見送るぜよ」

 上機嫌にそう言って、龍馬は先に立って歩き出す。内蔵太が、「はあ……」と言って目を瞬かせていた。昨日まではすっかり襞も取れてよれよれの皺だらけ、垢なのやら汚れなのやらよく分からないくらいにくたびれた袴をつけていたのに、今朝の龍馬は信じられないくらいすっきりとした出で立ちだった。内蔵太でなくても目を疑う。鼻歌交じりに足も軽い龍馬を皆で追いかけながら慎太郎は、ああ、と思い当たった。なるほど。そういうことか。

 京から伏見は近そうに思えるが、歩くと一刻はかかる。ちょっと見送るような距離でもない。ましてや伏見は京の玄関口で、このご時世、伏見奉行の目はかなり厳しくなっている。そんな中に、わざわざ貴重な時間を使って見送りとは。

 深草の葦原を越える。左手に伏見稲荷の山が見えてきた。京の暑さは土佐とはまた違って、地面やら草原からはむっとした湿気が上がってきて閉口する。

「龍馬さん。本当にあしらのことは構んでえいですき。今からでも京に戻《も》んてつかあさい」

 少し水でも飲もう、そう言って道端の石に腰掛けて休憩した。この暑さの中を見送るために歩こうとしている龍馬を気遣って、内蔵太がそう言った。龍馬の目が大きく見開かれる。

「なぁん言いゆう。ここまで来たらもう道も半ばじゃ、それに伏見にゃ幕吏もぎょうさん居りようし、皆を船に乗せるまでは心配じゃ」

「内蔵太。放っちょけ。見送りなんち、ただの言い訳じゃ。龍馬は単に伏見へ行きたいだけじゃき」

 内蔵太がきょとんと首を傾げる。陽に灼けた浅黒い龍馬の顔が、それでも分かるくらいに赤くなった。

「なんでですか」

「あああ、慎太郎! いらんことは言いなや!」

「龍馬はのう、情人《といち》に会いたいだけじゃ。この間、知り合いを伏見のなんとかっちゅう船宿に預けた、ちゅうとったろうが。ありゃあ、龍馬の情人のことがじゃろ」

「慎太郎っ!」

 顕助が、含んでいた水を吹き出した。「そねぇなひとがおったがですか!」

「顕助は知らんじゃろうが、大仏の家に出入りしちょった奴等じゃったら龍馬がひと目であん娘さんのことを気に入ったんは知っちょろう」

 慎太郎がそう言うと、龍馬はふいっと顔を背けた。内蔵太が、思い出すように眉間に皺を寄せる。

「西郷さんと会うたときに、伏見の船宿の寺田屋じゃったら口利きでいつでも使えるようにしちょいちゃる、言うちょったき。おおかた、そこにでも頼み込んだんじゃろ」

「あ……ああ、あん娘さんな!」

 内蔵太が膝を打ったところへ、龍馬はすっと立ち上がってずんずんと先に歩いて行ってしまった。皆で笑いながら、その後を追いかける。

「……情人やない。お龍さんは【妻】じゃ」

 龍馬がぼそっと呟くのを、慎太郎は聞き逃さなかった。

「まだ坂本家にもなぁんも言うちょらんのがやろ。そりゃあ、まだ【約束】ちゅうだけじゃあ」

「ワシが【妻】言うちょるんやき、【妻】なんじゃ」

「どういて御内儀にさんづけしちょるがです」

「うるさい。どがぁ呼ぼうがワシの勝手じゃろっ」

 あまりにも子供じみたその口振りに、皆で大笑いする。

「龍馬さんはよほどそん娘さんのことを気に入っちょるんじゃねえ」

 どねぇな娘さんなんがです? 顕助が興味津々で聞くのを、龍馬は耳まで赤くして「やかましい!」と一蹴した。それもまた笑える。

「顕助。すっと会えるき、それまでのお楽しみじゃ」

 伏見奉行を避けるために京町通から竹田街道に入って、目の前に大名屋敷が見えてきた。宇治川もすぐだ。



 寺田屋は、伏見で一番繁盛している船宿だ。店のすぐ前が船着場になっていて、そのまま「寺田屋浜」と呼ばれている。今も、大坂へ下る船を待つひとで寺田屋浜はごった返していた。その中で知り合いを見つけたのだろう、龍馬はひとを掻き分けて声を掛けに行ってしまった。

 先に店の格子戸をくぐって、帳場で三人分の船を頼む。代金を払って座敷に上がると、女が湯呑みに冷たい井戸水を持って来てくれた。

「あら。お客さん……」

「お龍さん。久し振りじゃのぅ」

「え! そいじゃあ、こんひとが龍馬さんの!」

 顕助が弾かれたように身を乗り出した。「ワシ、龍馬さんと同じ土佐の田中顕助いいます。うわぁ……げにまっこと別嬪さんじゃあ……」溜め息をつきながら失礼なほどお龍を見つめる顕助に、「よろしゅう……」そう言いながら、お龍も顕助をじっと見つめていた。どうやらそれがお龍の癖らしく、しばらくそうやって見つめられると、こちらの方が居心地が悪くなって思わず目を逸らしてしまう。顕助も、真っ赤になってさり気なく視線をずらした。そういえばワシも最初はそうじゃった、と慎太郎もそのときのことを思い出してふっと笑った。これでは勘違いしてしまう男だって多いだろう。或いは、龍馬だって同じだったのかもしれない。

「まだここに来て間なしですろう。仕事には慣れましたか?」

「はい、おかげさんで。女将さんがえらい親切にしてくれはりまして」

 その瞬間、お龍の目がほんの少し見開かれたような気がして、慎太郎は自分の後ろを振り返った。龍馬が座敷に上がってきたところだった。

「おう、お龍さん。お登勢さんにも今、挨拶してきたぞ。おんしがよう働いてくれるき助かる、ち言うちょった。ワシも安心じゃ」

 どかっと腰を下ろす龍馬に、お龍は「そうどすか」と素っ気なく答えて、龍馬の分の水を取りに帳場へ戻って行った。その後ろ姿を見送りながら、龍馬が頭を抱えて深い溜め息をつく。

「なんじゃあ、龍馬、情け《ずつ》ない声出して」

「分からん……まっこと分からんおなごじゃ……着物も新調してきて勇んで会いに来たっちゅうのに、にこっともしちゃあくれん……」

 その姿に、内蔵太も顕助も笑い出す。

「龍馬さん、お龍さんが【妻】じゃとか言うちょったんはなんかの間違いやないがですか」

「やかましい! 一応、祝言の盃は交わしたんじゃ!」

「ワシ、さっき、えろう見つめられちょったんですけんど、あんひとはワシに気があるんやないですろうか」

「阿呆! 顕助、おまん、船から突き落としちゃろか」

 わはは、と大声で笑っても、周りの客の賑やかさにそれもあまり目立たない。

 龍馬はあなぁ言うけんど。おまんを見つけたときのお龍さんの目ぇはあしらと話ちょったときにはない、ほんの少しの嬉しさがほんのり見えちょった。

 龍馬にそう言ってやろうと思ったが、思い直して慎太郎は黙って水を飲んだ。

 文久三年の九月に脱藩してから二年近く、当然だが慎太郎は土佐には帰れないでいた。最後に見た兼の姿は、まだ鮮やかに蘇る。白い手を振って、笑っていた。振り返ると日延べしてしまいそうで、結局一度も振り返らずに家を出た。あのときの兼は二十一、それをそのまま残してきてしまったことに心が痛む。

 典型的な京美人のお龍と兼とでは印象が全く違う。お龍が山に咲く孤高の百合ならば、兼は畦に咲く黄色いたんぽぽのようだ。地味ではあるが、疲れた足を休ませる木陰に咲く花を見ていれば、自然とこころが解けてゆくような気がする。ふたりは似ても似つかないが、忙しくあちこちを飛び回る慎太郎がたまに家に戻ったときの兼の目は、龍馬を見つけたときのお龍の目とよく似ていた。それでも兼は、嬉しさを隠さずに「おかえりなさい」と言ってくれたけれど。

 愛おしい気持ちが、胸を締めつける。この痛みを抱いたまま、慎太郎は自分の信念のために生きてそして死ぬのだ、と心に決めていた。

 そうは思っていても、愛おしい者が目の前にいて、それにこころを惑わせる龍馬に心ならずも妬まずにはいられなかった。こねぇな意地悪ばぁ許されるじゃろう、そう思いながらまた水を飲んだ。



 それから慎太郎は忙しく下関・山口を回り、八月十七日に寺田屋の船で伏見に戻ってきた。西の空が赤く染まったころ、寺田屋浜を上がったところで提灯に火を入れていたお龍を見つけた。

「慎太郎さん、お久し振りどすなぁ」

 寺田屋は船を使った輸送業を営む船宿で、基本的には宿泊客は取らない。この寺田屋浜に着いた客達は、それぞれが宿を探しに行く。港には花街がつきもののご多分に漏れず、この伏見にも柳町という色街がある。久し振りに柔く温かなものを抱いて眠るのも悪くない、そう思っていた。ところがお龍は慎太郎を座敷に上げた。慎太郎さんやったら泊めてもええよ、と寺田屋の女将であるお登勢が言ってくれたらしく、龍馬が使っている部屋に通される。文机の上には書きかけの書簡がそのまま残されていた。まったく、龍馬らしい。文を書いていたものの、用事を思い出して慌てて飛び出していったのだろうことがよく分かって、慎太郎は嘆息した。これではこの目の前の女性も気の休まる暇もないだろうに。

 どうやらあれから龍馬は主に伏見を拠点としていたらしく、昨日から京に出かけていて明日には帰ってくる予定だ、と燗にした酒を注ぎながらお龍が言った。

 お龍は、正直あまり愛想のいい方ではない。今もこちらの問いかけには応えるものの、自分から話すようなこともしない。気を許すことを怖がっているように慎太郎には思えた。それでも、お龍が慎太郎の話に口の端をほんの少しだけ笑いの形に上げるのを、慎太郎は視界の端で見ていた。大仏の家で顔を合わせる機会が多かったから他人よりは少しは気安く思ってくれているのかもしれない、とは思うが、こうなったら本当の笑顔を見てみたい気もする。

「あら。お酒、のうなってしまいましたな」

 もう一本付けてきまひょか、そう言ってお龍は階下に降りていった。その間に帯に掛けていた矢立を取り出す。ぼんやりとした行灯の明かりを頼りに、鏡を覗き込んだ。元結を解いて、手早く髪を結い直す。

「遅うなって申し訳ありまへん。煮物くらいやったらありましたよって、ちょっと温め直し――」

 そう言いながら入ってきたお龍が一瞬目を丸めて動きを止めた。

 失敗したか、そう思ったがもうあとには引けない。

「よう。お龍」

 できるだけ、低い声で言ってみた。次の瞬間、お龍が吹き出した。襖を開けたまま、入り口で身を捩って大笑いする。どないしたん? そう言いながらお登勢の娘のおりきが階段を上がってきて、しゃがみ込むお龍の上から慎太郎を見た。それを見ておりきも笑い、そして階段を戻っていった。

「お龍。まあ、そねぇなとこで笑っとらんと、酒でも注いじゃあくれんか」

「は、はい」

 笑いながらもそう答え、お龍は徳利を傾ける。ぐっとそれを飲み干して、慎太郎は元の声色に戻した。

「大成功でしたのう」

「もう……慎太郎さんがそないなことしはるとは思わんかったわ」

 何とか笑いの発作を抑え、それでもまだくすくすと笑いながらお龍はまた酒を注いでくれる。

 龍馬の顔には、特徴的な黒子が幾つかある。それを墨で描き、きつい癖毛の龍馬がしているように適当に髪をひっつめた。それが龍馬の真似だとちゃんと分かってもらえてよかったと思う。

「そやけど、あれは失敗どすえ」

「なんがですろうか」

「龍馬さんは、ウチのことを呼び捨てにはしはりませんよって」

 ああ、そういえば。前に一緒にここに来たときも、龍馬は「お龍さん」と呼んでいた。お龍は慎太郎の顔を見て、まだ忍び笑いを堪えている。

「そういや、この間も龍馬が<お龍さんが笑ってくれん>ち言いよったがです。龍馬の前ではそねぇに笑うたこと、ないがですか」

 慎太郎がそう言うと、一瞬でお龍の顔が硬く引き締まってしまった。これは悪いことを聞いたかもしれない。

 しばらく、お龍は黙り込んだままだった。じじっ、と行灯の油が燃える音だけが部屋に大きく響いて居心地が悪い。

「……あんお方はウチらに情けをかけてくれはっただけどすから」

「……は……?」

 そう言って、お龍は薄く開けられた障子の向こうに視線を移した。

 そういえば、と、慎太郎は初めてお龍たちの話を聞いたときを思い出していた。お龍の父である楢崎将作が安政の大獄で牢に繋がれ、病死してからお龍の家は困窮していた。弟や妹達はまだ幼く、働きに出られるのはお龍とその母くらいで、その母が大仏の隠れ家で慎太郎たちの世話をしていた縁でお龍と出会ったのだ。お龍は当時二十四、嫁いでいてもおかしくない歳だったが、母を含めて五人の面倒まで見なければいけなくなることもあって、母親はお龍の嫁ぎ先に頭を悩ませていた。その話を聞いて「国を憂いて家が窮するのは酷《むご》い」と、龍馬が支援を約束したのだ。「その代わりと言っちゃあ何やけんど、娘のお龍をワシにくれんですろうか」――これが「言い訳」だということは、周りは皆、気づいていた。その前に二、三回ほどお龍が奉公先から大仏の家に手伝いに来たことがあったが、初めて会ったときから龍馬の様子がおかしかったのだ。お龍が帰ったあとに、龍馬はさり気なくお龍の母にお龍の話を聞こうとする。「さり気なく」と思っているのは本人だけで、周りは顔を見合わせて笑っていた。何かと言い訳をしているが、結局は龍馬はお龍にひと目惚れで、何としてでも嫁に欲しいと思っていただけのことだ。

 眉を顰め唇を噛み締めたお龍の横顔は、明らかに何か勘違いをしている。そしてお龍は、龍馬に情けをかけられている自分に対して苛立っている。

 あれだけ分かりやすい龍馬のこころを見誤るとは。

――ああ。そうか。

 ひとりごちて、慎太郎はふっと息を漏らした。

 龍馬の気持ちが見えないだけではない。お龍は、己の気持ちに気づいていないのだ。それでも、何となくは龍馬の気持ちが自分に向かっていることに気づいている。それを嬉しくも思うのに、そのこころにさえ戸惑いを感じている。

 まるで、それは恋を知り初めた若い娘のようで。ぞくぞくっと、背中を何がが走り抜けてゆく。

「あ、すみまへん。障子、閉めますよって」

 夜気に身体を震わせたかと思ったお龍が障子を閉じ、慎太郎の前に座り直して酌をした。

「龍馬さんは、ええおひとどすな。大仏の家でお仲間の方が龍馬さんの話をしとったんを聞いとりましたけど、行くあてのないひとを操練所に誘うたり、無謀にも事を起こそうとしたはったひとを宥めたり。まあ、ウチもその中のひとりなんどすやろなぁ。龍馬さんは、路頭に迷うとるウチらをただ放っとけんかっただけどすさかい」

 珍しくお龍の言葉数が多い。それは、こころを偽っている証拠だ。認めたくないのだろう。「他の人と同じ」と思われていることに失望している自分を。

「何かと言うたらウチのことを〈珍しい女じゃ〉て龍馬さんは言いはります。ウチのことが面白いんどすやろな」

 酒を注ぐお龍の目は慎太郎の盃に注がれていた。よかった、と思う。あまりにも可笑しくて、口が微妙に歪んでしまったのを見られずに済んだ。

 お龍は知らないのだろう、龍馬が周りにどれだけお龍のことを言っているか。聞けばきっとこの澄ました顔だとて盛大に赤くなるに違いない。「ワシもあちこち歩き回ってぎょうさんのおなごを見ちょるが、あなぁな美人にはついぞお目にかかったことがない」だの「会う度に目を疑う」だの「極楽で天女に会うた気分とはこのことじゃ」だの。そのせいで「龍馬の御内儀は相当な美人らしい」と噂になっているというのに。

 まったく、どうしようもないすれ違いな夫婦《めおと》だ。それが可笑しくて、真面目な顔を保てているのか不安になる。

 さて。どがぁ言ってやったもんじゃろうか。

 く、っと酒を呷りながら、慎太郎は目を閉じた。

 言うのは簡単だ。おまさんが知らんだけで、龍馬は相当おまさんにくるっちょる、と。

 だが、これも「恋」の醍醐味なのだろう。

 隠そうとする龍馬と、まだすべてを知らないお龍。

 ある意味、似合いの夫婦だ。お互いが素直になってお互いの気持ちを伝え合えば、そのときの喜びはきっと計り知れない。ここでワシがそれを教えてしまうのはもったいない気がする。

 その日を、楽しみにしよう。

 話を逸らすために、慎太郎はお龍が持ってきた器に箸をつけた。ん、と目を瞠る。

「この芋の煮物はお龍さんが作ったがですか。こねぇに美味いもんが食えるとは、龍馬は幸せもんじゃねぇ」

「まさか。これはお登勢《かあ》さんの作りはったもんどす。ウチは料理ができまへんよって。龍馬さんには気の毒どすけど」

 そう言うと、お龍は声を立てて笑った。今までの、口の端だけで笑うようにではなく、心底楽しそうな笑顔で。見かけよりも若く見えるお龍だが、そんなふうに笑っていると幼くさえ感じた。

 お龍さんのこん笑顔を見るために、龍馬はどねぇに苦労するじゃろうか。そう思っただけで慎太郎も可笑しくなってきて、お龍と一緒に笑った。



 それから、慎太郎はまた忙しくあちこちを飛び回っていた。下関の白石家に龍馬からの手紙が届いて、九月の晦日までには周防の上関に薩摩の胡蝶丸で来るという。胡蝶丸は西郷を乗せて薩摩に帰るというので、慎太郎は急いで下関を出た。三田尻までは船を使い、山陽道の周南・徳山を越えた辺りで龍馬と何とか行き会うことができ、その日は徳山に宿を取ることになった。

「薩摩は何があろうと幕府の長州征討に反対すると言うちょる。大久保さんから西郷さんに宛てた手紙の写しがこれじゃ」

 非義勅命は勅命にあらず――それを見て、慎太郎はほっと息をついた。

 下関での会談を西郷がすっぽかしたことによって、長州では薩摩への心証がさらに悪くなっていた。西郷から武器調達の確約は得られたものの、それによって全面的に信用できるかといえばやはりそうではない。長州藩士が京で活動するにも限界があり、情報の収集は思うようにならず、こうして他藩の人間に頼っている面が大きい。

「大久保さんは、内大臣やら賀陽宮《かやのみや》様にも朝議で長州征討に関して反対してもらえるように説得しちょったそうじゃ。朝議がもう始まるっちゅう刻限まで必死じゃった、と。じゃけんど……長州征討の勅許は下りてしもうた」
「そんときはそんときじゃ。おまんもいつまでも甘いこと言うとらんで、腹を括れ。戦さもなしで幕府を倒せるち、そねぇなことは夢か幻じゃ」

「やがのう……」

 差し向かいで酒を飲みながら、龍馬は眉根を寄せて俯く。この件に関しては、どこまでいっても慎太郎と龍馬の意見は合わない。何度、龍馬に「戦さで決着《けり》をつけるしかない」と説得したことか。

「おまんは確かに戦さを何度も経験して、何でも知っとるじゃろう。じゃけんど、そのせいで麻痺しとるんじゃ。【死ぬ】っちゅうことは、そねぇ美しいもんではない。死んでしもうたら、もう何もできんがやぞ。生きてこそ、為せるもんがあるがじゃ。そんことには尊皇も佐幕も開国も攘夷も変わらん。命は、どねぇなもんでもひとつの命じゃき……外国が虎視眈々と日本を狙うてるがやのに、同じ日本人同士で殺し合いなんぞしとる場合やなかろうが」

「戦さ《それ》は最後の手段じゃ」龍馬のその言葉を何度聞いただろう。要は、その「最後の手段」がいつになるかの違いだ。同じことだというのに、龍馬はどうしてもそれに納得しない。

 膳に上っていた煮物を口にして、龍馬は溜め息をつく。慎太郎も、それをひと口食べてみた。

「龍馬。ここの飯もなかなかやが、寺田屋の飯は格別に美味かったのう。お龍さんのことでも思い出しとるんやないがか?」

「な、なんじゃ、唐突に」

 慌てて、龍馬が煮物を口に放り込んで咀嚼する。それを見ながら、慎太郎はにやにやと笑った。

「それにしても、お龍さんは京でも指折りの美人じゃが、笑うと美人っちゅうよりは可愛らしゅう見えゆうのう」

 龍馬の箸が止まる。

「……なんじゃと?」

「可愛らしい、ち言うたが。普段はどっちか言えばちっくと冷たい感じがしゆうが、笑うと陽だまりのようになるんじゃねえ」

 がっ、と胸倉を掴まれる。はずみで倒れた徳利から、酒が畳に染み込んでゆく。

「……おまん……お龍さんに何がした?」

「なぁんもしちょらんよ、人聞きの悪い」

 ぱっと龍馬の手を払うと、龍馬は慎太郎を睨んだまま座り直して大きな息をついた。

「……慎太郎。どがぁしてお龍さんを笑わせたが。あん娘《こ》は、ワシとふたりで居るときにゃあ、笑うてくれんがよ。こっちに来る前にも寺田屋に寄ってきたがやけんど、『淋しい思いをさせてすまんのう』ち言うたら『淋しゅうなんかおへん。気ぃつけていってらっしゃいませ』ち、真顔で言われたぜよ……ワシ、嫌われとるんじゃろうか……」

 龍馬はそう言って、大きなその身体を小さく丸めた。

 まったく。呆れてものも言えない。

 みっつも年上で、ワシよりもはるかに体格のえい龍馬の相談に、どうしてワシが乗らにゃいかんがじゃ。年が明けりゃあ、三十一にもなる男が。

 そうは思うが、やはりおなごひとりのことで頭を悩ませている龍馬は滑稽だった。つん、と顎を反らしたお龍さんの面影が重なる。

「嘘でもえいから、『早う戻っとくれやす』ち言われたらどねぇ嬉しいか……」

「阿呆。そねぇな普通の娘さんと違うき、おまんも惚れたがじゃろ。なぁん都合のえいことばかり言いゆう」

「そりゃあ、そうじゃけんど……」

 徳利の中に残った酒を手酌で注いで、ちびちびと酒を飲む。情けないどころか、哀れさえ誘う。こういう龍馬だからこそ、おなごだけでなく、誰もが龍馬を放ってはおけないのだろう。

「何も思っちょらん男について行くようなおなごじゃなかろう、お龍さんは。そねぇなことより、坂本家にはちゃんとお龍さんのことを伝えたんじゃろうな」

「ああ。この間、こういう経緯で世話しちょる家族がおる、ち書いて送った。お龍さんが妹を悪い奴らから取り返しに行った話とか」

「……は? おまん、まさか『妹がものすごい美人だ』とか書かんかったじゃろうね?」

「書いた」

「……それ、お龍さんにも見せたが?」

「もちろん」

「おまん……本物の阿呆じゃな」

「なぁんか言うたか?」

 香の物をばりばりと噛み砕いていたせいか、慎太郎の悪態は龍馬には聞こえなかったらしい。

 あのときよりも状態が悪化しているような気がして、慎太郎も頭を抱えたかった。どうしてこんな男がもてるのか分からないし、こんな鈍感を好むお龍の男を見る目も疑いたくなる。それでも、このままではあまりにお龍が気の毒だった。そもそも悪いんは龍馬の方で、お龍さんやないがやき。

「ともかくじゃ。お龍さんがワシに屈託のう笑うてくれるようになったがは、ワシに気を許してくれたからじゃ。おまんは好きとか嫌いとか以前の問題じゃろう、ちぃとはお龍さんに気ぃばぁ遣え。おまんがそんなんやき、お龍さんも『情けをかけられただけ』ち言いとうなるがやろう」

「情け、ちどういうことじゃ」

 心当たりもない、そんな顔をする龍馬にはほとほと呆れる。

「おまん、今までにお龍さんにどねぇなこと言うてしてきたか、ちぃとは考えてみぃ。いっそのこと、ワシが貰い受けた方がお龍さんの為じゃとか思うてしまうじゃろう」

「なぁん言いゆう! おまんには兼さんがおるがやろう!」

 兼。

 その名を聞くだけで、じんと胸が痛んだ。

 他人のことは言えん。ワシは、誰かを幸せにできたんじゃろうか。ワシのひとりよがりで、兼を苦しめとるんじゃなかろうか。

「……そうじゃな」

 慎太郎が自嘲気味に笑うと、龍馬が目を見開いた。

「おまんには、おまんなりのやり方があるじゃろう。後悔せんことじゃ。今のこの世の中、命なんぞいつ潰えるか分からんもんやき」

 しんみりとそう言うと、龍馬はもうそれ以上何も言わなかった。

 少し酔いが醒めたところで、ふるっと身体が震えた。立冬も過ぎて、陽もかなり短くなってしまっている。明日は宮市《みやいち》までの七里、早く出立しなければならない。

 布団を敷いて横になったものの、どうしても寝つけなかった。瞼を閉じれば北川村の家が見える。貧しい村で、どれだけ働いても米も麦もろくに採れなかったが、山の匂い、川の流れは今でもすぐ傍に感じる。父上には、置き文だけで家を出てしまって結局は会えず終いだった。姉婿の照久兄上には、迷惑をかけ通しだ。本当なら自分が継ぐべき庄屋の仕事を、全部兄上に押しつけてしまっている。そして――兼。

 庭の枳殻《からたち》に接ぎ木した柚子を嬉しそうに見上げて、「どんくらいで実がなるんですやろうか」と目を輝かせていた。そねぇに早うはできんよ、と言っても、兼は毎日のように柚子を見に行っていた。

 一緒にいた時間はほとんどなかった。それなのに、兼を中岡家に縛りつけているのは自分だ。

 そして、中途半端な立場にあるお龍のことを思う。龍馬のこころが分からずに悩むお龍は、可愛くはあるがやはり可哀想だった。それでも、次にお龍に会ったときには龍馬は龍馬なりのやり方でお龍を幸せにしようとするのだろう。近くにありさえすれば、あの凍りつくような顔でさえ、きっと解かすこともできる。

 それにひきかえ。自分は。

 は、っと溜め息をはく。ワシは、最低の男じゃ。自分の信念に生きたいがために、周りの人間を置き去りにする。そんなワシを待つ兼が幸せなはずもない。兼が幸せになる権利を奪っちょるんは、他の誰でもない、兼を愛おしく思うワシじゃ。

 隣で眠る龍馬を起こさないように、そっと褥を抜け出して行灯に火を入れる。持っていた荷の中から半紙を取り出し、文机に拡げた。矢立から筆を抜き、墨に浸す。

 兄に宛て、文をしたためる。兄上にはご心痛ばかりをおかけして申し訳ない、ですが、私のことは諦めてください、と。

 一気に書き進めてみたものの、一番書かねばならないところに辿り着いたとき、やはり迷いが生じた。躊躇い、目を閉じる。暗い視界の中、兼の笑顔だけがぼんやりと浮かび上がる。あの笑顔を壊したくない、守りたい、切にそう願う。

――兼に暇を与えてください――

 これでいい、と思う。どこであろうと、誰のものであろうと。ワシが願うのは、兼の幸せじゃ、と。

 これが、ワシのやり方。

 だから、後悔はしない。

 書き直せないよう、手紙を結んで封をした。これで、いい。

 行灯を消し、褥に戻る。

 瞼を閉じると、満開の桜の前に立つ兼の姿が見えた。

 その口は、何かを言っていた。

――花が散ってしまう前に 帰ってきてくださいね

 すまんちや、と慎太郎は夢の中で呟いた。そんな小さな約束のひとつさえ守れん夫ですまん、この祈りが兼の許に届けばいいと、こころから願った。

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秋海棠 界 

KAI SHUKAIDO

Pixiv:2664519

Twitter:kai_shukaido

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