「ねえ、千鶴ちゃん。花火、しよっか」
夕餉を終えて後かたづけをしていた私が戻ってくると、総司さんはお猪口を差し出してそう言った。
「え? まだ残ってたんですか?」
朝晩はかなり冷え込んできて、燗のお酒が美味しい時期だ。付けたばかりの熱燗の徳利からお酒を注ぐ。口をつけた総司さんが、「あちっ」と言って顔を歪ませた。
夏の暑い盛り、仕事帰りの総司さんが嬉しそうに包みを持って帰ってきたのが昨日のようだ。中身は線香花火で、それを見てはしゃぐ私の顔を横目に、総司さんが意地悪そうに笑った。
「子供みたい」
それを聞いて膨れる私に、「そうしてるとますます子供にしか見えない」そう言って不意打ちのように頬に口づけた。私の反応を見て楽しんでいるのは分かっているのに、頬が熱くなるのを止められない。
「いつになったら慣れてくれるのかなあ? まあ、そういうところが千鶴ちゃんの可愛いところだけどね」
夏の夕暮れは足が遅い。暗くなるのも待てず、私たちは線香花火に火をつけた。松葉のように、ぱちぱちと爆ぜる光。最初は大きな光の玉が、徐々にしぼんで柳のような光を散らす。
「どっちが遅くまで落とさないか、競争だよ?」
でもお互い、震える手を止められなくて、まだ光を放つ花火の玉を持っていられなかった。
「あああっ」
ぽとりと落ちる光の玉。くすくすと笑いながら、総司さんは「じゃあ、もうひとつ」そう言って私に線香花火を渡してくれる。
それでも、最後まで私たちは落とさずに持っていることができなかった。線香花火を見ていると……嫌な想像しかできない。それがますます、私の指を震わせる。光を放ったまま落ちる玉。そして、真っ黒になってやがて見えなくなる。それが……まるで。
「……やめたやめた。つまんないよ。ねえ、お酒が呑みたいな」
あ、じゃあ用意しますね、そう言って、私は総司さんの顔も見ずに台所へ逃げた。どんな表情《カオ》をしているのか、見たくなかった。
蜩《ひぐらし》の声が、藍色に染まる空に溶けていった。
あの夏の夕暮れを思い出して、私はふるふると頭を振った。
「私、下手だから……」
いいからいいから、そう言って、総司さんは薬箪笥の抽斗《ひきだし》のひとつを開けて、丁寧に折り畳まれた懐紙を取り出した。開いてみると、線香花火が五本。
「湿気ちゃったら使えなくなるからね、こまめに懐紙を取り替えておいたんだけど……どうかな」
さあ行こう。私の手を掴み、笑って私を縁側へ連れ出す。蟋蟀《こおろぎ》や鈴虫の声が、風に乗って耳に届く。
総司さんは試しに一本、線香花火に火をつけた。鮮やかに飛び散る光の雨。
「ああ、まだ大丈夫だね」
総司さんが持った線香花火は、玉になる前に弾けて落っこちてしまった。
「ねえ、千鶴ちゃん。僕、いいこと考えたんだよ」
「いいこと?」
私が総司さんを見上げると、総司さんはにっこり笑って背中の方から私の手を取った。
「な、何するんですっ?」
「なんで手を繋ぐのに怒られなきゃなんないの? 僕らはもう夫婦なのに」
意地悪く笑う総司さんに、思わず顔が熱くなる。夫婦――その言葉が信じられない。そりゃあ、一緒に住むようになって結構経つけれども……まだ、慣れない。
「まったく。可愛いねえ、千鶴ちゃんは」
耳許でそう囁かれ、ますます動悸が激しくなる。もうっ、本当に意地悪だ!
私の手に線香花火を握らせ、その上から総司さんの手が添えられる。火をつけたのはいいけれど、震えが止まらなくてすぐに玉は落ちてしまった。
「もう一度」
「そ、そんなこと言われたって……」
こんなにどきどきしているのに、落とさずにいられる自信なんてない。大丈夫だよ、また耳許で言われて、次の花火も落っこちてしまった。
駄目だ。
唇が、震える。
見たくない。見たくない。
あれが、まるで、総司さんの未来のようで。
きっと、もうすぐ燃え落ちる。私には分かる。そう遠くない未来、総司さんはこんなふうに……。
涙が零れそうで、私はぎゅっときつく目を閉じた。
「心配しないで。大丈夫」
顔を背けたまま、灯される火。そして、また虚しく落ちる命。
「お願いです、総司さん、もう……!」
震える指で、総司さんの着物を掴んだ。愛おしげに、総司さんが私の頬に口づける。
「僕らは、競争する必要なんてないんだ。力を合わせよう。落ち着いて……大丈夫」
何度も何度もそう言われ、徐々に呼吸が落ち着く。すう、っと身体が冷え、総司さんと触れている背中がほんのりと温かく感じた。総司さんの息遣い。静かな鼓動。ああ。このひとはまだ、生きている。私と共に生きてくれている。
最後の線香花火。じっと、その行方を見つめる。じりじりと飛び散る光。それが、永遠にも感じられて。
そして、柄にぶら下がったまま、散りゆく菊のように、光は徐々に失われた。
「……できた」
「うん。できたね」
思わず振り向いて、私は総司さんにしがみついた。総司さんも、私を抱き締め返す。力強い、その腕で。
「君は、ひとりじゃない。ひとりになんて、しない。僕から離れるなんて、許さない。君さえ居れば……僕は、大丈夫だ」
「はい……っ」
抱き潰されて絶え絶えになる息で、そう応えた。愛おしさが、込み上げる。
そう。
もう、大丈夫。
何があっても私は、このひとの傍に居る。そして、最後まで傍に居る。
ふたりで居れば。ふたりで歩けば。きっと大丈夫。
何も、怖くない。
あなたの生命が燃え尽きるそのときも。こうしてあなたを抱き締めて。離れない。
いつまでも、一緒。
だから最後まで。笑っていよう。この人の、傍で。