千鶴は、俺達に心を許してくれていると思っていた。初めてあいつが屯所へやってきてから三年、一緒にいろんな場面を切り抜けてきた。
あいつの人生は、俺達の許にやってきてから相当に変わってしまったに違いない。今までに経験したことのない、辛い思いだってしてきたはずだ。
自分が知らなかったことを知らされ、鬼に追われ……それでも、気づけばあいつはいつも笑っていた。
女は、守るべきものだ。
だが、俺は、千鶴が女だから守りたいと思ったわけじゃねぇ。あいつが、あいつだから。だから、守りたいと思うんだ。
千鶴が「鬼」だ? だからなんだって言うんだ。あいつは、いつもあいつだった。あいつの笑う顔が、俺は好きだった。
情けなかった。
あいつを守るといつも言っている俺が――不知火を追い返せないどころか、千鶴は俺を庇って怪我をしてしまった。
いくら治癒が早いからといって。受けた傷の痛みは、俺達と何の変わりもない。撃たれたあいつの顔が、いつまで経っても目の前から離れない。
守る、だと?
「……はっ」
情けないどころか、それさえ通り過ぎて呆れちまう。守られていたのは、俺の方だった。いつもいつも、あいつに救われていたのは、本当は俺の方だった。
何も知らなかったのは、俺の方だ。
あいつの様子がおかしかったのは、それからだ。
俺達とは違うこと。そして、山南さんの、羅刹研究の協力要請に戸惑っていること。
気づいていた。だが、顔を合わせたくなかった。
腕には自信があった。守りたいものを、守る力があると思っていた。それが、脆くも崩れてゆく。俺は、何も知らなかっただけだ。自分の見える範囲しか、見えていなかった。だが、思い知らされた。鬼は――強い。
怖かった。
あれだけ「守る」と大口叩いといてなんて情けない男だろうと、思われてやしないかと思って。
分かっている。
あいつは、そんな女じゃない。
「お前は情けない男だ」「お前に何ができる」「ただの人間に」そう言っているのは、俺自身だ。
分かっているのに……迷い、戸惑いながら、俺を追いかけようとするあいつを、俺は避け続けた。
避けていなければ、もっと早くに気づけていたはずだ。そうすれば、あいつを追い詰めずに済んだ。
俺のやっていることは、いつも空回りだ。情けない。
だが。或いは、こうでもならなけりゃ気づけなかったのかもしれない。自分自身の、変化に。
「……どこへ行くつもりだ」
嫌な予感がして張っていた屯所代わりの宿屋・釜屋の表で、出て行こうとする千鶴を呼び止めた。
「は、原田、さん……」
暗闇の中、千鶴の目が大きく見開かれる。
「どこ行くんだよ」
「あ、あの……私……」
俺から目を逸らす千鶴の肩を、思わず掴んでいた。痛みに、千鶴が顔を歪めた。睨みつける俺から逃れる術もないことを悟ったのだろう、千鶴は俯いたまま観念したように小さく呟いた。
「私……皆さんに迷惑かけてばかりですので……ここを」
「出ていくっていうのか」
頷きもしない。ただ、俯いたままで。千鶴は身体を固くしていた。
お前は、俺達の仲間じゃなかったのか? 俺達に、心を許してくれていたんじゃなかったのか? 俺達に……俺、に!
「――許さない」
口から出たのは、ひどく低く、冷たい言葉だった。俺を拒絶する千鶴に、込み上げる気持ちを止められない。
「どうして俺に何も言わずに。出て行きたいなら、相談すればいいだろう」
ふるふると、千鶴は首を振る。
「なんでだ。俺には言えないってぇのか」
また、首を振る。覗き込むと、頬には涙が光っていた。
「……泣くほど、俺達が嫌か」
そう言うと、千鶴は顔を上げた。傷ついた、表情《カオ》をしていた。
「そうじゃないです! だって! 私、何の役にも立てない! 皆さんを、危険な目に遭わせてしまう! 私が居ることで、鬼たちを呼んでしまう! そのたびに、誰かが傷ついてしまう……! なのに、私は何もできない!」
俯いて、身体を強張らせて。必死になって俺を拒む。涙が、頬を伝って顎から零れ落ちる。
「何言ってる。あのとき、お前は俺を庇ってくれたじゃねぇか。繕い物もしてくれてる。役に立ってないなんて……」
「何もできないのに……ここに居ると、私は贅沢になってしまう。皆さんのお仲間になれないことを、恨んでしまう……!」
なんでだ。
なんで、そんなことを。
お前は、俺達の仲間じゃねぇか。こんなにも長い間傍に居て……それとも、そう思っていたのは俺だけか? お前は、俺達と共に居たい訳じゃないのか?
「羅刹隊の力にもなれない。こんなにも我儘なのに、もう誰も傷ついてほしくないと思ってしまう。もう、誰が私のせいで傷つくのを見たくないんです……!」
違う……違う!
いつも守られていたのは、俺達の方だ。お前が来てから、みんなの笑い声が増えた。将来《さき》の見えない俺達に、光を与えてくれたのは……!
震える指先が、俺の袖を掴んだ。
「原田さんが傷つくのを……見たくない……!」
そう言って大粒の涙を零す千鶴の腕を思い切り掴んで……俺は、俺の口で、千鶴の口を塞いでいた。
「ん……っ!」
驚いて、千鶴の動きが一瞬止まる。やがて、俺の袖を掴んでいた手も緩み……千鶴の身体から力が抜けたのが分かった。
「……悪かったな、不躾な真似をしちまって。泣いてる女を黙らせる方法は、これしか知らねぇんだ」
そう言って笑う俺を見つめる千鶴の瞳。瞬きをするたびに、残った涙がぽろぽろと落ちる。
「…… 俺が、悪かった。俺の勝手な思いでお前を避けちまったから、お前もこうするしかなかったんだろう。お前が気にしていることも知っていたのに……ただの人間 である俺がお前に何をしてやれるかなんて、お前を守れもしない俺が何を言っても、な……。俺の言葉が、お前を傷つけちまうくらいなら、そう思ったらお前に 合わせる顔がなかった」
追い詰めた。
俺が、俺の言葉が、俺の態度が、千鶴を追い詰めてしまった。
本当に俺は大馬鹿野郎だ。傷つけたくないから避けるなんて、本末転倒もいいところだ。
「もし、まだ俺に愛想尽かしてねぇなら……ここに、居ろ。な? お前は、お前だ。気にするこたぁねぇ」
笑って、千鶴の頭をぐしゃっと混ぜた。俺が笑ったからだろう、千鶴も安心したように笑った。
冷えちまうぞ、そう言って千鶴の背中を押して釜屋の中に入る。部屋の前まで送ると、泣いてしまったのを恥ずかしく思ったのか、少し視線をずらして「おやすみなさい」と千鶴が呟いた。
「ああ。また明日」
ゆっくりと閉じられる襖の隙間に、千鶴の伏せた目……こころが、騒ぐ。
慌てて部屋に戻り、置いておいた五合徳利を引っ掴む。
「あ、畜生……また俺の酒、盗み飲みしやがったな、新八の野郎」
猪口を取り出すのももどかしく、俺はそのまま徳利から酒を呷った。
零れた酒が羽織に染みて、そこをぎゅっと握る。
なんだ……この痛みは。
ぐい、っと口を拭う。ふと指先が触れて、自分がしてしまったことを思い出した。
何を、やっている。餓鬼じゃあるまいし。
俺はそれなりにもてたし、「所帯を持ってください」と女に言われると悪い気はしなかった。可愛い嫁さんに可愛い子ども。俺が仕事から帰ってくるのを、家族 が表で手を振って待っていてくれるそんな日々。俺が頷けば、それは手に入る。だが――俺は新八や平助たちと、どこまでも走ってみたかった。
だが、夢を手放したのは本当にそんな理由なのか?
嫌な予感しかしなくて宿屋の前で張っていたとき。そして、出て行こうとする千鶴を見たとき。俺は――絶望した。
俺を、俺達を置いて行こうとする千鶴が、どうしても許せなかった。
あいつが望むなら、新選組を抜けるのもどうにかしてやろうと思っていた。なのに。今の俺は、それが許せない。それが、あいつの望みだとしても。
どうしても、失えない。どっちを取るのか? そう聞かれれば、きっと迷う。だが……あのときのように、千鶴を捨ててここに残りたいとも、千鶴が望むなら自由にしてやろうとも思えない。
両方を、手にしたい。諦められない。
何が違うっていうんだ。
所帯を持ってもいいか、そう思ったときだって、相手のことを可愛いと思っていた。この気持ちが、恋《そう》なんだろうと。
だが、俺は仲間を取った。何の躊躇いもなかった。
なのに。俺は。例え、千鶴が俺達から離れることを望んでも。
ずきりと刺すような胸の痛みに……知って、しまった。
気づいて、しまった。
俺が今までに抱いていた感情、恋だと思っていたものは、そうではなかったんだ、と。
何を犠牲にしても代えられない、それが――これが、恋《そう》、なんだ。
「……餓鬼、か」
はっ、と自嘲的な溜め息が漏れる。
守りたい。傍に居たい。それは総て――あいつ、だから。
今までに感じたことのない、甘い痛み。もう、気づけなかった頃には戻れない。
何かが変わる気配がして、徳利の中身を全部空けた。