「……副長。ご無事で」
宿の表で傘を差して出迎えてくれたのは斎藤だった。
「すまねぇな。心配かけちまって」
俺がそう言うと、千鶴はすぐに馬から飛び降りて、俺に手を貸してくれた。
「斎藤さん。土方さん、傷のせいか雨に打たれたせいか、少し熱っぽいんです。すぐに寝かせてあげたいんですけど」
「それはいかん。ではすぐにでも床の用意を」
「あああっ、いいって言ってんだろう!」
斎藤が踵を返して宿へと入っていく。千鶴に向かって文句を言うと、千鶴は俺を睨んだ。
「土方さんは、少しはこちらの身にもなってみればいいんです。そんな傷で、宇都宮から会津《ここ》まで、どれだけ無茶したと思ってるんですか」
そう言って、千鶴は斎藤のあとを追った。傍に居た島田の忍び笑いが聞こえる。
「……なに笑ってやがる」
「いや、雪村君も強くなったな、と思いまして」
肩を貸してくれる島田を睨みつけると、そんな表情をしても無駄ですよ、とまた笑われた。
それは、まるで野分の一瞬の晴れ間のようなひととき。誰もがそれを分かっている、無風のひとときだった。
翌日、唐津の大野右仲が尋ねてきた。唐津の兵を率いている大野はなかなか切れる人物で、いずれは新選組として参戦したい、と言っていた。有り難い話だ。
長い話も終わり、大野が帰った夕刻、斎藤が部屋にやってきて出かけます、と言う。
「この時分から? 俺もか?」
「もちろんです。馬を用意していますので」
長かった雨も昼には上がり、綺麗な夕焼けが西の空を彩っていた。行き先は七日町《ここ》から南東へ一里程、天寧寺の湯だという。
「傷を治すなら天寧寺だと聞きました」
ゆっくりと馬を歩ませながら、斎藤がそう言う。まったく、余計な気を回しやがって。
鬱蒼と暗い山が目の前に拡がる。細い山道に馬を進めると、途中で斎藤が道を折れた。
「どこへ行く」
「すみません。ちょっと寄り道をします」
その先には、寺があった。この付近の湯だから、「天寧寺の湯」というらしい。
「住職には許しを頂いているので、馬のままで上がります」
そのまま、天寧寺の裏山を上がってゆく。かなり上がったところで、視界が開けた。眼下に広がるのは、夕闇にぼんやりと浮かぶ会津平野。篝火に照らされた若松城が見える。あれを、守らなければならない。容保公の、恩義に報いるためにも。
それを眺めていると、斎藤が懐から何かを取り出した。懐紙に包まれたそれは――どこか懐かしい、黒い髪。そっと手を伸ばすと、固く、少し癖のあるそれが、俺の中の何かを呼び覚ます。
――近藤さん。
いつまでも、守りたかった。共に、戦いたかった。あんたの傍に居ることが、俺の唯一の望みだった。なのに。
「……これだけしか、俺には残さないんだな」
受け取った懐紙を握り締めると、そっと千鶴が俺の腕に触れた。
「みんな、居ますよ。それが――近藤さんが、土方さんに残したものなんだと思います」
斎藤が、少し笑う。島田も、笑っていた。
残照が、辺りを明るく照らし出す。ああ、そうだな。
最後の光を頼りに、何もないそこへ髪を埋めた。小刀を取り出し、少し髪を削ぎ落した。それを、近藤さんの隣へと埋める。千鶴が、石を積んでくれた。
「――行くか」
想いは、すべてここに。そして俺はまた、鬼になる。
暑苦しくて、ふと目が覚めた。
夜明けはまだ遠い。遠くから、鐘が七ツ聞こえた。
……湯でも使うか。
そっと布団を抜け出したところで、続きの部屋の襖が薄く開いた。
「……土方さん? どこへ行かれるんです?」
起こさないようにと、物音には気をつけたのに。顔は見せないが、千鶴の心配そうな声がした。
「湯に入ってくるだけだ。お前は寝ていろ」
「こんな刻限にですか? 危ないですよ」
あいつも、相当に疲れているはずだ。それなのに、俺の心配ばかりして。
「大丈夫だ。すぐに戻る。置いて行きやしねぇから、安心して寝てろ」
はっと息を呑む気配がして、静かに襖が閉じられた。
図星だったか。
笑いを噛み殺しながら、暗い廊下を忍ぶ。角を曲がろうとしたところで、濃い闇に出くわした。
「……なんだ、斎藤か」
「これから湯ですか」
「ああ。お前も戻れよ」
「……付き添います」
はあ。二間先の斎藤が目が覚めるようでは、隣に居る千鶴が目を覚ましても不思議じゃねぇな。俺としたことが。やはり離れにあいつ用に部屋を取ってやればよかった。あいつがなんて言おうと。
「……勝手にしろ」
「はい」
湯帷子《ゆかたびら》を付けて、湯に足を浸す。じくじくとした傷口に、それは意外と沁みて思わず顔が歪む。
真っ暗な闇。ここ数日の雨で水量がかなり増えたのだろう、湯の外を流れる川が、地獄の底からのような音を立てて流れている。
斎藤は湯には入らず、龕灯《がんどう》を持って石に腰を下ろした。それを外に向けて照らす。薄ぼんやりと、外の風景が浮かび上がる。
ゆっくりと身体を沈める。思わず声が漏れて、咄嗟に咳で誤魔化す。斎藤が、ちらりとこちらを見た。
宇都宮城を奪回されたときの戦いで、流れ弾が足を掠めた。それは致し方ないことだ。だが、撤退するときに油断してしまった。背後を取られ、避けきれずに背中を斬られるとは……武士として、これほどまでに不名誉なことはない。千鶴を含めて数名しか知らないことだ。だから、人の多い宵の口に湯を使う気になれなかった。
溜め息で気を散らしながら、一刻も早く傷を治して戦線に戻らねば、と思う。戦況は、一瞬の判断の遅れであっという間に引っ繰り返される。近藤さん亡き今、俺がすべてを背負わねばならない。いや、背負ってみせる。負ける訳には、いかない。
「……副長」
斎藤の、静かな声。まだお前は俺を「副長」と呼ぶのか。そのことに、少なからず安堵する。お前も、俺と同じように「隊長」は近藤さんしか居ない、そう思ってくれているんだな。
なんだ、と首を向けると、斎藤は少し躊躇ったように口を開いた。
「副長は治療に専念してください。その間、微力ながら俺が副長の代わりを努められるように尽力しますので」
ああ。やはり、気づかれてしまったか。
背負うべきは俺ひとりでなくてもいいと、言葉の外で斎藤は言ってくれている。長いつき合いだ、斎藤が考えていることが俺に分かるように、俺の考えていることも斎藤には分かってしまうのだろう。
肩の力が、抜けた。そうだな。これからは、皆で乗り越えていくんだ。
「……頼んだぞ」
はっきりとそう言うと、斎藤には珍しく、本当の笑顔を見せた。
まだ明けぬ空に、ただ、戦場にも似た濁流の音だけが響く。龕灯に照らされた流れが、何もかもを呑み込んで流れ下ってゆく。
それは、俺たちの運命にも似ていた。このまま、なすがまま、俺たちはこの奔流に呑み込まれてゆくのか。
ごうごうと 定めし命 流れゆく
ふと口をついた句。ああ。弱気だな。
いや。行き着く先で。流れを変えてみせるとも。
逸る瀬が 集いし淵で 石穿つ
そうだ。俺はひとりじゃない。
徐々に白みつつある空を見上げる。
近藤さん。そこから見ていてくれ。
きっと、俺たちは。
あんたの見た夢と同じ場所へ。
きっと、辿り着いてみせる。