
関節が痛いな、と思った。
昨日の夜からなんとなく身体の中心がぼんやりと熱かったし、頭痛もあった。
この痛みは、どこかで覚えている。
でも、この時代ってインフルエンザなんてあったんだろうか?
私がここに飛ばされる前、新型インフルエンザの問題ですごく騒いだのを覚えている。もしホントにインフルエンザだったら……広めると、大変なことになるかもしれない。
「女将さん……今日は私、部屋で繕い物させてください」
「ええけど……なんでそない顔を背けてるん?」
私は、はははと笑ってごまかした。まさか、女将さんにとっての未知の病気かもしれないから、なんて言えない。
「でもまあ、助かるわ。ほな、これ、お願いするわね」
両手にどっさりと綻びの目立つ着物を持たされ、一瞬めまいがした。部屋に籠るためにあんなことを言っちゃったけど……正直、裁縫は苦手なんだもん……。
「お。なんじゃ、重そうじゃのう。半分持とうか?」
廊下の先から龍馬さんの姿が見えて、にこにこ笑いながら私に近づいてくる。とっさに、抱えた着物で口許を隠す。
「いえ、大丈夫です! すぐそこなので!」
「遠慮せんでもよかろう?」
「ホントに大丈夫ですから!」
慌てて、龍馬さんの横をすり抜ける。あ、待たんか、そんな龍馬さんの声が閉めた障子の向こうから聞こえた。
以蔵の羽織に斬られたような跡があった。
武市さんの足袋が綻んでいた。
慎ちゃんの長着の袖の裾がかぎ裂きになっていた。
痛む頭で、学校で習ったはずの記憶を総動員して針を動かす。同じような布を当て、細かく縫っていく。
みんな、大変だよね。毎日毎日、遠くまで出向いてたくさんのひとと話して。新撰組や見廻組に見つかりそうになって逃げなきゃいけないときもある。どうしても戦わなきゃいけないときもある。この綻びや裂けが、その結果なんだ。
そう思うと、裁縫が苦手なこととか、なんだか身体が熱いこととか、そんなことどうでもよかった。
頑張ってるみんなを、ちょっとでも支えたい。
私にできることなんて、そう多くないんだから。
「ん……見えにくいな」
布を目の前まで引き寄せて、ひと針ひと針丁寧に。下手なのは分かってるんだから、せめてこころだけは込めよう。
残った最後のひとつを手にした。龍馬さんの、襦袢。襟元の縫い目がほどけて開きかけていた。
どうやって直そうかとそれを膝の上に乗せたとき、身体がしびれるような感じがした。
この香り……龍馬さんの、匂い。
きゅ、っとこころが縮んだ。
この時代、洗剤なんてものはないから、洗濯は水で洗うだけだ。お陽さまに晒された龍馬さんの袴からは、やっぱりお陽さまのような龍馬さんの匂いがする。
洗濯してあるのはみんな同じなのに……どうして、こんなにこころがざわめくんだろう。
そっと持ち上げて、いけないと思いつつも頬を寄せてみた。
息をいっぱい吸い込むと、それはまるで龍馬さんの腕の中のようで……
視界が、くらりと揺れた。
息が、詰まる。
いけない。
一度目をぎゅっと閉じて、気持ちを入れ替えた。
少し糸をほどいて、これ以上解けないように糸を玉止めにして。空いたところをまつり縫いしてゆく。
もう少し。もう少しで終わる。
どれだけ振り払っても、龍馬さんの匂いが私を包み込む。
ばくばくと、心臓が早い鼓動を刻む。息をするのも辛い。吐き出される呼吸が熱くて、どうにかなってしまいそう。ざわざわと、背中を何かが駆け抜けてゆく。
そして、目の前が真っ暗になった。
耳許で、水が跳ねる音がした。
気持ちいい。
ふんわりと、お陽さまの匂いがする。
嬉しくなって、私は口を歪ませた。
「りょうま、さん……」
「お。気がついたがか?」
……この声、は……?
は、っと目を開けた。
目の前に、龍馬さんがいた。私の額に置かれた冷たい手拭いの位置をずらして、にっこりと私に微笑む。
障子の向こうは、オレンジ色に染まっていた。もう、夕方。
「夕餉のお手伝いしなくちゃ!」
慌てて起き上がろうとした私を、龍馬さんの大きな手が遮る。
「無茶をするな。おんし、熱を出して倒れちょったんやき」
「え……」
そこで思い出した。そうだ、私、インフルエンザかもしれないんだった!
布団を鼻まで引き上げて、私は龍馬さんから顔を背けた。
「あのっ! もう大丈夫ですからっ! 龍馬さん、部屋に戻ってくださいっ」
龍馬さんに移したら申し訳ない。必死になって逃げる私に、龍馬さんがふっと息を吐いた。
龍馬さんの手が伸びる。布団に落ちてしまった手拭いを拾い、もう一方の手で私の頬に冷たい手を当てた。龍馬さんの方を向かされ、額に手拭いを乗せられる。
じっと、龍馬さんが私の顔を覗き込む。手は、頬に置かれたまま。
火照ってしまった顔に、龍馬さんの手が心地好くて私は目を細めた。少しごつごつした手。そこからもお陽さまの匂いがして、心臓がぎゅっと絞られるように痛んだ。
「……そがぁに避けんでもよかろう? ワシはそんなに頼りないか?」
「そ、そんなわけじゃ……!」
逃げられない視線を受けて、どんどん熱が上がっていく気がする。あまりにも顔が近すぎて、息を吐くことさえできなかった。
「なあ」
思いがけない問いかけに、息が零れた。
「知っちゅうか?――風邪は、誰かに感染《うつ》した方が早う治る、ち」
「は……? あ……っ」
私の零した吐息が龍馬さんに拾われた。龍馬さんの匂いに包まれ、しびれた頭ではもう私は何も考えることができなくなってしまった。
「まったく、世話の焼ける」
火鉢に掛かったやかんから湯気が上がっている。冷たい水の入った桶を持ってきてくれた武市さんが、呆れて溜め息をつく。武市さんには、私が作るようにお願いしていた簡易のマスクをしてもらっていた。それがどのくらい役に立つか分からないけど、ないよりはマシだろうと思う。
「君が風邪を引くのは仕方ないとして、どうして龍馬まで風邪をもらうんだ」
「すみません……」
それもこれも、そもそもは私のせいだ。申し訳なくて、私は布団の中で小さくなった。
「おんしが謝る必要はなかろう。悪いんはワシじゃ。おんしが可愛いて、自分を止められんかった」
のう? そう言って隣の布団で笑う龍馬さんに、私はあまりにも恥ずかしくて布団を頭からかぶった。
あのとき、キスから解放されて、私はかなり慌てた。「インフルエンザかもしれないんです、感染っちゃったらどうしよう!」涙目になりながら言う私に、龍馬さんはふむ、と唸った。
「インフルエンザなら聞いたことあるき。何度か大流行した風邪はインフルエンザが原因じゃと、長次郎が蘭学者から聞いたと言うておった」
それに、おんしじゃてどこかで誰かから貰うておるんじゃろうから、おんしの責任でもなかろう、そう言って龍馬さんは私の頭をぽんぽんと撫でてくれた。
そ、そっか。私がインフルエンザに罹ってるってことは、この時代にもインフルエンザがある、ってことなんだ。
安心したけど、はっと思い直した。
「だとしても龍馬さんに感染ったら大変です!」
「じゃから」
そう言うと、龍馬さんはまたぐっと私に顔を近づけた。
「……感染《うつ》した方が治りが早いと言うておろう?」
――思い出したら、顔がかあっと熱くなる。
そのとき、額にひんやりとした感触があった。
「せっかく熱が下がりかけていたのに、また上がったんじゃないか?」
武市さんが、手を私の額に当てていた。そして絞った手拭いを額に乗せてくれる。
「あ、ありがとうございます……」
すみません、これは風邪の熱だけじゃないです、心の中でそう謝った。
「武市っ! 気軽にそん娘《こ》に触るな!」
べしゃっ、と濡れた音がした。絞り切っていない手拭いを、武市さんが龍馬さんの顔に投げつけたのだ。
「やかましい。おとなしく寝ていろ。まったく、お前のは風邪でもなんでもなくて〈草津の温泉でも治せん不治の病〉だろう」
大袈裟な溜め息をついて武市さんが立ち上がる。にししっ、と笑う龍馬さんに、武市さんもふっと微笑んだ。
その姿を見送って、あっと気づいた。私も嬉しくなって笑った。
「なんじゃ、どうした?」
「あ、武市さんの足袋、私が直したものだったんです。ちゃんと使ってくれてるんだ、と思って」
そう言うと、龍馬さんはむっと顔を歪めた。
「あ、ダメですよ、起きちゃ」
私が言うのも無視して、龍馬さんは私に向かって手を伸ばす。そして、熱い身体に私を抱き込んだ。龍馬さんの匂いに包まれて、もう治りかけの身体がくらくらする。龍馬さんの早い鼓動が直接耳に刻まれて、私の心臓も同じようにスピードを上げる。
「なななっ、何するんですかっ!」
「見てみぃ」
目の前には、龍馬さんの襦袢。これは、私が直した襦袢?
「……いつもいつもありがとう。おんしへの想いは、言葉だけでは伝えきれん。やき……」
龍馬さんの手が、私の両頬を包んで顔を上げさせる。優しく微笑まれて、もう、何もかも溶けてゆくような気がした。こんな微笑みに勝てるはずが……
「だ、ダメですっ!」
辛うじて理性を総動員して、私は龍馬さんの顔を両手で押し戻した。
「む。惜しかった」
「惜しかった、じゃないでしょ! 龍馬さん、熱あるんですよっ!」
くくっと笑いながら、龍馬さんが私の手首を掴んで身体から遠ざけてしまった。
「ほいたら、熱が下がったらワシの好きにしてえい、ちゅうことじゃな?」
仕方ない、今はこれで辛抱しよう、そう呟いて、龍馬さんは止める間もなく私の額にくちづけた。全身の血が、額に集中したみたいに熱くなる。
「ん。まだ熱があるようじゃ。辛くはないか?」
「だだだ、大丈夫ですからっ! 龍馬さんこそ早くお布団に入ってください!」
身を捩って龍馬さんから逃れて、私は布団に潜り込んだ。
ぶつぶつ言いながらも龍馬さんも身体が辛かったのだろう、おとなしく布団に入ってくれた。しばらくすると、静かな寝息が聞こえてくる。身体を捻って、眠る龍馬さんの手をそっと握った。龍馬さんの匂い。安心する。
この熱はきっと、一生下がらないと思う。……こうして、龍馬さんと一緒にいる限り。
障子が西陽を柔らかくして部屋に注いでくれる。陽に透けた龍馬さんの前髪がきらきらと綺麗で、うっとりと見とれていた。
好き。大好き。
きゅっと手を握ると、反射で龍馬さんも私の手を握り返してくれた。
嬉しくなって、そっと目を閉じた。
規則正しい龍馬さんの寝息に誘われて、ゆっくりと夢の扉が開く音がした。
