
今日の龍馬さんは、機嫌が悪い。
朝餉を知らせに部屋の外から声を掛けたら、「食欲がない」と言って部屋から出てこなかった。髪も結わせてくれない。体調が悪い訳ではないと言う。
「珍しいっスねえ、龍馬さん、どんなときでも食べておかないといざというときに力が出ないからって、体調が悪くても食べるんスけどねえ」
もくもくとご飯を食べながら、慎ちゃんがそう言う。
「放っておけ。食べたくなったら自分で出てくる」
興味なさそうに以蔵が言うと、ちらりと以蔵の方を見て武市さんが意味有り気に笑う。
「まあ、龍馬にも考えるところがあるんだろう」
私も何だか、食欲がなくなってきてしまった。
そのあと、お茶だけでも、と思って龍馬さんの部屋まで行ったけれど、書き物で忙しいからそこに置いておいてくれ、と素っ気ない。ずっと机に向かったまま。今朝から龍馬さんの顔を、まだ一度も見ていない。
今朝から、すこぶる機嫌が悪い。
今日は少し寝過ごしてしまった。外から賑やかな声がして、二階から庭を見下ろしてみると、珍しく武市と以蔵が朝稽古をしていた。
そこへ、リョーコがやって来た。手拭いを持って、以蔵の元へと行く。
リョーコが何かを言った。それに答えるかのように、以蔵がリョーコの耳元へと顔を寄せ、何かを呟いた。以蔵が身体を離したとき、リョーコは顔を赤くして嬉しそうに笑っていた。
ただ、それだけのことだ。
それだけのことで、こんなにも気分が悪くなる。
自分の心を操れない。
そんな自分に、心底嫌気が差した。
何度もワシに近づいてくるリョーコを遠ざけてしまった。
そんな自分に吐き気がする。
どうすればいい?
昼餉も、龍馬さんは食べなかった。
自分の部屋で上の気配に耳を澄ます。襖が開く音がして、私は急いで部屋を出る。帳場の方へ行くと、ちょうど階段を下りてきた龍馬さんと出会った。
顔を見ることができて、私はほっとする。ほっとしたけれど、私を見る龍馬さんの顔に表情がなくて、そのことにどきりとする。どうして、いつものように笑ってくれないの?
動揺していたけれど、それでも何とか私は普段通りに声を掛ける。
「龍馬さん、お腹空いていませんか? おにぎりでも作りましょうか?」
「いや、ええ。ちくと出掛けてくる」
そのまま、その言葉だけ残して、龍馬さんは寺田屋を出て行ってしまった。
何も、言えなかった。
我ながら、大人気ないと思う。
自分に腹が立っているからと言って、何故リョーコに当たる?
出掛けてくる、と言ったとき、リョーコの目が見開かれた。今にも、涙が零れそうな瞳だった。
出掛ける目的があった訳じゃない。頭を冷やしたかっただけだ。
それでも。
あの表情には、少し心が動いた。ワシに、心を寄せるかのようなあの顔。悪くない。思わず、頬が緩む。
ワシは、これほどにまで意地悪だったんじゃろうか?
心が、痛い。
龍馬さんは、それほどの時間出掛けていた訳ではなかった。帰ってきたとき、「おかえりなさい」と声を掛けたけれど、「ああ」と何気ない返事しかしてもらえなかった。
私、何かしちゃったんだろうか?
何か、怒らせるようなこと、した?
思い当たらなくて、どうすればいいか分からない。
龍馬さんの、あの太陽のような笑顔が、見たい。
帰ったとき、リョーコはワシを待ち伏せしていたのだと思う。
帰りを心配してくれていたリョーコが、可愛くて仕方がない。
しかし、一度目覚めた意地悪な心は、そう簡単に引っ込みそうにない。
おかえりなさい、という言葉に、わざと素っ気なく返事をしてしまう。すれ違いざまにちらりとリョーコの顔を見ると、何故だか分からないと戸惑った顔をしていた。
すまん。理由はないんじゃ。
おんしの、その顔が見たいだけ。
いい加減、何だか腹が立ってきた。
私には、何の思い当たる節もない。なのに、龍馬さんはどうしてあんなに怒っているの?
さすがに夕餉は食べに来たけれど、その間、私はとにかくむくれたままだった。
怒っている理由さえ教えてくれれば、私だって謝ることができるのに。
それをさせてくれない龍馬さんに、すごく腹が立っていた。
「おい、リョーコ。そんな顔をしていたら飯がまずくなる。やめろ」
以蔵がそう言うけれど、どんな顔しようが私の勝手でしょ。
つん、と顎を反らした私を見て、武市さんが何だか笑っている。龍馬さんは、何もなかったかのようにご飯を食べるだけ。
腹には勝てなくて、夕餉は食べた。
リョーコは、明らかに怒っている。そんな顔も面白くて、ずっと見ていたくなる。
ワシに振り回されるリョーコ。なんて、可愛らしい。
でも、そろそろリョーコの笑う顔も見たい。
今日、リョーコのあの笑顔を見たのは以蔵だけかと思うと、胃の腑がむかむかする。
膳を下げて自分の部屋に戻ろうとするところを、さりげなく待ち伏せる。気づいたようだが、何も言わずに襖を開けようとした。その小さな背中に声を掛ける。
「私、忙しいので」
振り返りもせずに、そう言う。肩を掴むと、リョーコは振り返った。その、きらきらした瞳を輝かせて、今までに見たこともないような視線でワシを睨む。
なんて――顔じゃ。
そのまま、リョーコを部屋に押し込んで襖を閉じる。両の肩を掴んでワシの方を向かせると、リョーコは大きく目を見開いて歯を食いしばっていた。泣くまいと、努力をしているのだろう。
思わず、笑いが込み上げた。
私の両肩を掴んだまま、突然、龍馬さんがあっはっはと笑い出した。
何で? 私、何もしてない!
「何で笑うんですかっ!」
「い、いやっ、すまんっ」
くくく、と肩を震わせながら笑う龍馬さんに、泣きそうな気持ちはどこかへ行ってしまった。
ぐいっと肩を引き寄せられ、龍馬さんの腕の中に抱き締められる。
どきり、と心臓が騒ぎ出す。
その細い身体を抱き寄せると、リョーコの鼓動を確かに感じる。早鐘のようだ。
ワシのこの複雑な気持ちが、リョーコに分かるじゃろうか?
笑わせたい。困らせたい。嬉しがらせたい。泣かせたい。
このまま、すべてが欲しくなる。
そんな気持ちをくれるのは、おんしだけじゃ。
そんな気持ちは、おんしからしか欲しくない。
意地悪な心を目覚めさせるのは、おんししか、いない。
