
「え……? 平助くん、今、なんて……?」
一瞬、耳を疑った。
「だから。俺、新撰組を……抜けようかと思ってる」
頬杖をついてお団子の串を持ったまま、そう言った平助くんは私と目を合わせようとはしない。「今日は巡察も遅番だから、団子でも食いに行くか?」って明るく私を誘ってくれた平助くんの様子がなんだか変だと、うすうす気づいていたのだ。でも。まさか。
「抜ける、って……だって、平助くん……」
山南さんが笑う。あの、優しかった山南さん。彼が新撰組を脱走したと聞いて、私はそれから山南さんに会えず終いだった。新撰組を抜けた者は切腹なんだよ、そう沖田さんから聞いたのは、私が山崎さんの見張りで八木邸から出ないようにと言われた日で――いつものように笑っているのに、沖田さんの瞳は何も映してはいなかった。だから、何が起こったのか、私には分かってしまった。
ちらり、と平助くんが私を見た。何を考えていたのか分かったのだろう、平助くんはふっと笑った。
「大丈夫だよ。伊東さんが御陵衛士って役目をいただいたんで、俺もそっちについていこうと思ってんだ」
これは近藤さんも了承済みだから、そう言われて、私はほっと胸を撫で下ろす。
「これは――きっと、運命なんだ……」
空いた串で皿をつつく平助くんは、どこかぼんやりとしている。運命だと言いつつ、その瞳は迷いに揺れていた。
「もう、分からないんだ……俺は、そもそも主上《おかみ》を守りたいと思っていた。近藤さんたちと京に上ってきたときには、みな同じ志でいたはずだったのに……」
だけど、会津藩預かりという立場に置かれたために、逆にそれが縛りとなって……新撰組の中でさえ、佐幕だ倒幕だと争うようになってしまった。あの、山南さんさえも……助けられなかった。最近の新撰組は、もう見ていられない……人ひとりを助けられないで、どうやってこの国を救うっていうんだ……。
普段は明るい平助くんが、私の前で、今まで抱えていたものを私に見せてくれる。それは余りに辛い気持ちだったけれど……私のこころが、どこかでそれを喜んでいる。私にだけ見せてくれる、平助くんのありのままに。
じっと平助くんを見つめていた。視線が、わずかに合う。その瞬間に、平助くんが私の手を取った。
「俺と一緒に……新撰組を出よう」
心臓が、止まるかと思った。それこそ、何を言われたのかが分からなくて。
「え……?」
まるで駆け落ちの誘惑のように聞こえる言葉に、みるみる顔が火照ってゆく。だけど、それを言う平助くんの表情はとても固くて……そして。
「――あんたがよく会いに行ってる梅太郎さんって……坂本龍馬、だろう?」
「……っ!」
思わず、息を呑む。そんな私を見て、平助くんが深く溜め息をついた。
「……やっぱり、あんたを新撰組には置いておけない」
「ち……違うんです! りょっ、梅太郎さんは、そんな……っ!」
言い募ろうとしたところにぎゅっと手を強く握られて……私は、驚いて口を噤んだ。
「……悪かった。別に、尾けるつもりじゃなかったんだ」
新撰組にお世話になってからも、龍馬さんは何かと私を気にかけてくれた。自分たちが新撰組に追われる身であることも顧みず、なにかと私の身の回りを気にしてくれて……ただ、「おんしが危のうなるき、ワシのことは梅太郎ち呼んでくれ」と笑っていた。
「半月ほど前の見回りのとき、朝からあんたが『梅太郎さんのところに行ってきます』って言った日だ。見回りの最中にあんたを見つけて……声をかけようとした先に、男を見つけた。俺は、あいつと同じ北辰一刀流なんだよ。伊東さんと小千葉の道場に行ったときに、ちらりと見かけたことがある」
私は、無意識に激しく首を振っていた。
違う……違う! 龍馬さんたちは、私に新撰組のことなんか何ひとつ聞かなかった。いつもいつも、困っていることはないか、足りないものはないか、とただ私を心配してくれていただけなんです!
そう言いたかったのに、喉が貼りついてしまったように何の声も出ない。
涙が、溢れそうになる。私が……悪いんだ……!
そのとき、また平助くんがぎゅっと私の手を握った。
「分かってるよ。あんたが困っているときに助けてくれた坂本さんたちを、今もあんたが頼りにしているだけだってことくらい。俺には、分かってる……」
躊躇いがちな平助くんの微笑みが、私にすべてを悟らせる。
ああ。
そうなんだ。
平助くんや土方さん、沖田さんが分かってくれても……新撰組の他の隊士の人が同じように考えてくれるとは限らない。もう……龍馬さんたちには、きっと会えない。
私は、ぎゅっと唇を噛み締めた。
「そんな顔、すんな……俺は、あんたの笑ってる顔が見たいんだ。だから……一緒に、新撰組を出よう」
そう言って、平助くんは笑った。さっきまでの困ったような顔でなく、まるで、雲間から差す一筋の陽の光のように。ふわっと、こころに温かいものが拡がってゆく。
そして、平助くんは小さく「やっぱり取り消す」と呟いた。
「これは、運命なんかじゃない。流される運命なんて、俺にはいらない。これは、俺の道だ。俺が、俺で決めた道なんだ。あんたを守る。俺が、あんたの笑う毎日を守るんだ……!」
祈るように、平助くんは握った私の手を額に押し抱いた。
どれだけ、平助くんはこの結論を導くまでに悩み、揺れ、行きつ戻りつしたのだろう。
山南さんのこと。まるで、自分自身の糸に絡まるかのように縛られてゆく新撰組のこと。伊東さんのこと。そして――私の、こと。
私と龍馬さんとの関わりがなければ、平助くんは新撰組を出ない道を歩んだんだろうか……?
ううん。
それが、どんな道であろうとも。それが平助くんの決めた道なら。私も、振り返ったりしない。
私も、私の行く道を、自分で決める。
「……行き、ましょう。平助くん」
顔を上げた平助くんがゆっくりと身を乗り出して、私の頭だけを抱き締めた。
貴方と行く道なら、そこはきっと陽の光に照らされた道だから。
温かい平助くんの腕に、そっと指を伸ばした。
† † †
今年の冬は格別に寒く、春の訪れもかなり遅れていた。
膨大な雑事をこなしてくれていた山南さんを失い、そしてまた伊東さんも隊を離れた今、新撰組の裏方仕事は副長である俺のところにすべて集まってくる。
片づけても片づけてもあとから降って湧くように積まれる書類の山に、半ばうんざりしかけていた。
「おい。茶を頼む」
無意識にそう口にして、あいつもすでに居ないことに気づく。数日前に、あいつは平助と共に出て行ってしまった。
「まあ、いいか。あいつの不味い茶をもう飲まずに済むんなら」
そうひとりごちたとき、障子の向こうに人影が映った。長い髪。まさか。
「副長。お茶をお持ちしましたよ」
「……なんだ。総司か」
なんだとはご挨拶ですね、そう言いながら、総司が笑う。
「お茶請けの団子も用意しましたから、少し休憩されてはいかがです? 今日は暖かいですし」
開け放たれた障子の向こうからは、ここ数日の寒さからは想像もできないほどの穏やかな空気が流れてきた。
誘われて縁側に出ると、どこからともなく漂う爽やかな香り……。
「梅、か?」
「今日は余りにも暖かくて、何輪か綻んだようですね」
急須から茶を注ぎながら、総司が言う。
縁側に胡坐をかいて、庭先の梅の木を見上げる。そこにあいつの姿がちらついて……あの木の下で、まだ固い蕾を見上げながら「何色が咲くんでしょうか?」と、咲く日を楽しみにしていた。俺はその色を知っていたが、あいつが余りにも楽しみにしていたから教えてやらなかった。
淡い紅色。あいつの着ていた着物と同じ色。
ぼんやりと考え込んでいる間に、総司が俺の部屋から俺の文箱を持って横に置いた。まったく、変に気のつく奴だ。
筆を取ろうとして、躊躇った。穏やかに髪を揺らす風は温かいのに、なぜかこころにぽっかり穴が開いてしまったようで……冷えてゆく。指先が、凍る。
止まった手を遮るように、総司が俺の筆と短冊を取った。
「僕も、詠んでみましょうか。歳三さんの真似して」
また、軽々しく名を呼びやがって。まったく。
「……やれるもんならやってみろ。詠んだこともないくせに」
「言いましたね?」
総司が、にやりと笑う。
冷えた指先を温めるために、俺は湯飲みを取った。湯気が、空へと解ける。失ったもの、去っていったものの面影と共に。
「できましたよ」
そう言って、総司は句を続けた。
梅一輪 一輪ほどの 暖かさ
喉に茶が詰まって、俺は思わずむせ返ってしまった。
「おめぇ……そりゃ、芭蕉の句じゃねえか」
あはは、そう笑って、総司は空を見上げた。その明るい瞳を、遠いどこかへ向けて。
「……梅の花は去ってしまったのに、春は遠いですね」
ああ。
お前も、あいつのことを思い出していたのか。
お前も、寂しいのか?
山南さんもいない。平助もいない。そして、あいつも……。
「時機を見て、伊東さんを……平助を、斬れ、とよ」
今朝、近藤さんと話したこと。今晩の隊長会議で話す手筈にはなっているが……平助と仲のよかった総司には、あらかじめ伝えておきたいと思っていた。
そうですか、そう呟いて、総司が俺を振り返る。その瞳が、冥《くら》く翳る。
「北辰一刀流の道場主の伊東さんと、魁の平助をね……腕が鳴りますね」
軽く掲げたその腕は、何の迷いもないように見えた。
「……ちったぁ躊躇いやがれ」
溜め息をつきながら言う俺に、口の端だけを上げて総司は笑う。
「僕は――貴方の命なら斬りますよ?」
冥いその瞳は、何も映してはいない。あのときと同じ――山南さんの追っ手を総司に指名したとき。山南さんが切腹の介錯を総司に望んでいる、と伝えたとき。「……ご命令とあらば」そう言った総司の瞳は、まるで生ける人形のようだった。
そして、総司は違えない。自分自身を殺せば、何の痛みも感じないとばかりに。命じられれば自分の意思ではないのだから、こころを痛める必要などないとばかりに。
このままで、いいのか? 俺は、こうなることを望んでいたのか?
痛みを感じないのなら、苦しみを感じないのなら、その方がいいのだろう。だが、本当にそうなのか? 総司をこんな、空ろな器のままでいさせていいのか?
そのとき、さあっと一陣の風が俺たちの間を摺り抜けていった。
「春風に――」
思わず口をついて出る句。
総司が、ぴくりと反応する。
「春風に 吹き誘われて 山桜 散りてぞ人に 惜しまれるかな」
散っていった山南さんを思い、伊東さんが詠んだ歌。それを、散らさなければならない。
「俺たちもまた、同じように散るんだろう。だが、そのときまで、野分(台風)が吹いても散る訳にはいかねぇ」
余りにも、残酷すぎる運命。それでも、この風に立ち向かう。
総司が、ゆっくりと頷いた。瞳に、力が戻っていた。
「もちろん、まだ散るつもりはないですけどね」
笑う総司は、もういつもの顔をしていた。そうだ。お前も、お前らしくあれ。お前自身の道を見つけろ。憑き物が落ちたように晴れやかに出て行った、平助のように。
ああ、そうそう、思い出しました、団子の串を手にしながら、総司がそう言う。
「彼女からの伝言です」
「……なにっ?」
思わず、眉を顰める。
「てめぇ……御陵衛士の奴らとの接触は禁じられてるだろうが」
「彼女は御陵衛士ではありませんからね。それに、この団子を買った店で偶然会っただけですから」
にこにこと笑う総司の顔は、余りにも胡散臭い。大方、あいつだけでなく平助もその団子屋に呼び出したんじゃねぇか?
「……で、なんだって?」
「土方さんも、新撰組のみんなも、大好きな気持ちは今も変わりません、ですって」
……はっ。
馬鹿馬鹿しくて、思わず鼻で笑ってしまった。
「好いた相手と駆け落ちした割に、ちっとも成長しねぇな。まぁ、相手が平助じゃ仕方ねぇか。まったく、餓鬼臭ぇ」
余りにもおかしくて、込み上げる笑いが止まらない。そうだな、あいつらしいと言えばあいつらしい。
総司も、同じように笑っていた。
ようやく発作がおさまった頃に、一句思いついた。
さっと筆を取り、それを総司に渡した。
「梅の花 壱輪咲ても 梅はうめ――うわぁ、なんですか、これ」
投げやりですねぇ、そう言って総司が苦しげに笑う。
「これでいいんだよ。俺のための句じゃねぇんだから」
「……そうですね」
ああ。暖かい日だ。
明日には、もっと梅の花も開くかもしれない。
それでも。
急ぎ咲くあの一輪はあいつたちのようで。
そしてここは、あいつたちの場所でもあるんだ。
いつでも、いつまでも。
