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「よーう、平助!」

 大広間の隅っこの方で座り込んでいた俺に、明るい声で覆い被さってくるのは左之さんだ。その声は、明らかに面白がっている。もう、耳に入ったのか。

「やらかしたんだってなあ、ん?」

 黙って乗られたままの俺に、左之さんはなおも追い討ちをかけてくる。

「落ち込んでんのか? いつもの平助らしくないなあ」

「……うるさいなあ」

「お? 怒った?」

 その台詞に、もう我慢がならなかった。重たい左之さんを背負ったまま立ち上がる。

「おわっ! 危ねえじゃねえかっ」

 そのまま畳に転がされそうになりながら、左之さんが非難の声を上げる。俺はそれを振り返って、左之さんを睨みつけた。

「知るか! 放っておいてくれ!」

 力任せに襖を閉じた向こうで、左之さんの「何だ、ありゃ?」という声が聞こえた。ひとの気も知らないで……! 俺はそのまま、自室へと戻った。



 夕餉も、食べる気になれなかった。

 陽の落ちた部屋は、あっという間に闇に包まれる。行灯に灯りを入れる気にもなれなかった。

 手の中には、青い組紐。闇にぼんやりと浮かんでいる。あのときに、とっさに掴んでしまった――

「……平助。いるか?」

 !

 土方さんだ。俺は、咄嗟に組紐を懐へとしまいこんだ。

 す、っと襖が開く。

「なんだ、灯りもつけていねぇのか」

「……いいんです。このままで」

 そうか、土方さんはそう呟くと部屋に入ってきた。俺の目の前に、胡坐をかいて座る。

 しばらく、土方さんは何も言わなかった。俺も、何も言わなかった。

 どれほどそうしていただろう? 闇の中で、ふ、っと土方さんが笑った。

「……あれは、お前《めぇ》のせいじゃねぇ。お前が足首を痛めていたのを知っていたのに、お前にあとを任せちまった俺の責任だ」

「……いえ。やはり、俺の責任です。相手がおなごだからと油断したのは確かですから」

 何も、できなかった。追いかけることさえ。ただ、あの後ろ姿を見送るしかできなかった。

「あの場でお前が追いかけていたら、お前がただでは済まなかっただろう。何せ相手は武市半平太だしな」

 土方さんが出した名に、びくりと身体が震える。それを見透かされたのだろうか、土方さんは立ち上がって、俺の肩をぽんと叩いた。

「……お前に、何もなくてよかった」

 そして、襖は閉じられた。



 悔しい。

 悔しい悔しい悔しい。

 どうしてあのとき、俺は動けなかった?

 痛めていた足首なんて、言い訳にならない。

「待て」そう追いかけようとしたときにちらりと振り返った武市半平太のあの眼差しに、もうそれ以上何もできなくなったのだ。

 懐から、青い組紐を取り出す。

 あの子――ひなた、という名のあの娘が髪を結わえていた組紐。追いかけようとして、指が届いたのは組紐だった。思わず握り締めた紐が解けて、彼女の明るくて長い髪が揺れた。

 最初、彼女は少し怖がっていた。

 土方さんと俺に挟まれ、人気のないところまでつれてこられて、もうそれだけでも俺には彼女が気の毒で仕方がなかった。

 でも、彼女は自分を譲らなかった。

 自分の意思で、自分で羽ばたくかのように。

 岡田以蔵が現れたと報せが入って、土方さんが行ってしまったあと、とにかく彼女を早く楽にしてやりたかった――これから、起こることを考えれば。

 安心させようと俺が名乗ると、彼女は少し緊張も解けたようにぎこちなく笑いながら、「ひなたといいます」と答えた。まるで、雪解けを誘う陽の光のような微笑みだった。

 そして、武市半平太が現れて……彼女を連れて行ってしまった。彼女が、最後まで庇おうと必死になっていた男――

 組紐を、握り締める。

 どうしてあのとき、意地でも捕まえておかなかった?

 どうして――俺ではダメなんだ?

 この感情は――いったい何だ?

 ぐちゃぐちゃに入り乱れる感情を持て余して……俺は、その組紐に口づけた。

 あの微笑みが、闇の中にぼんやりと浮かぶ。

 次に会ったら、絶対に――俺は、彼女を離さないだろう。


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秋海棠 界 

KAI SHUKAIDO

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Twitter:kai_shukaido

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